ガレオン船/ガレオン貿易
大航海時代、スペインの太平洋で用いられた大型帆船。それを用いたマニラとアカプルコを結ぶ貿易をガレオン貿易という。
ガレオン船
ガレオン貿易
ガレオン船を使う貿易のうち、スペイン領のフィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコを結ぶ貿易をガレオン貿易という。1565年のレガスピの太平洋経由のフィリピン到着から、1815年までの250年間、スペインの経済を支えた。マニラを拠点とするスペイン商人は中国の福建からの中国船がもたらす絹織物(”海のシルクロード”であった)や陶磁器をメキシコに運び、帰りにメキシコ銀を大量に持ち帰った。その銀が中国に流入し、明~清の中国経済の発展と社会変革をもたらした。マニラの盛衰 マニラには中国商人(華僑)も居住し、国際的な交易都市として繁栄した。ガレオン貿易の時代はマニラはスペイン船のみの入港が認められ、外国船は入港できなかったが、17世紀には本国スペインが衰退期に入り、オランダやイギリスが海貿易に進出するようになると、自由な入港を求めるようになった。19世紀初めにはガレオン貿易そのものも終わり、1834年のマニラ開港によって外国船も入港し、フィリピンの砂糖の輸出港へと性格を変化させた。
Episode フィリピン経済を破壊したガレオン貿易
ガレオン貿易は1年に1往復だけ行われた。アカプルコ行きは北緯42度まで北上して大圏航路をとり、3ヶ月から半年かかる危険な航路だった。帰りは北緯10度あたりを順風を受け2ヶ月程度の安全な航海であった。アカプルコでは積荷の2倍以上の値段で売れたので、濡れ手に粟の大儲けができた。ガレオン船は30隻以上が沈没しているが、その大半は積載過剰が原因だったという。ガレオン貿易に参加出来るのはスペイン人商人かカトリック教会であった。しかし、ガレオン貿易は中国とヨーロッパを結ぶ中継貿易であったため、フィリピン(およびメキシコ)に富をもたらすことはなく、現地の産業育成には結びつかなかった。原住民は貨物の積みおろしに強制労働させられるだけであった。ガレオン貿易がフィリピン経済の自立を阻害したと言える。<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.36-40>