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東方貿易/レヴァント貿易

北イタリア商業都市のイタリア商人による、東地中海岸におけるビザンツやイスラーム商人との遠隔地交易を東方貿易(レヴァント貿易)という。11世紀に盛んになり、十字軍時代に一層活発になった。主に香辛料・宝石・絹織物などの奢侈品を輸入し、銀を輸出した。15世紀のオスマン帝国の東地中海への進出によって次第に衰え、大航海時代に交易の中心は地中海から大西洋に移った。

 まず10世紀ごろから、南イタリアのアマルフィなどの諸都市のイタリア商人による地中海東岸でのビザンツ帝国とイスラーム諸国の商人たちと遠隔地貿易が始まった。従来の東方への主要な通商路であったペルシア湾を経由するルートは、セルジューク朝のトルコ人の侵攻によって避けられるようになり、替わってイスラーム圏でアッバース朝が衰えた結果、それまでの経済の中心がバグダッドからエジプトのカイロに移ったために、エジプトから紅海を経由するルートが繁栄していった。また、中央アジアを通る地上ルートを経由して極東につながっていたコンスタンティノープルのルートも新たなルートとして盛んに利用されるようになった。
 これらの新しい商業ルート上でイタリア商人の活動が活発となっていった。背景にはヨーロッパ封建社会の成熟によって封建領主(貴族)層の宝石や香辛料、絹織物などの奢侈品の需用が増加したことがあげられる。また貿易の対価としてヨーロッパ産の銀などが主に輸出された。

イタリア商人

 このようなイタリア商人による、地中海東岸との遠隔地貿易を「東方貿易」という。また地中海東岸の小アジアやシリアは「東方」を意味するレヴァント地方といわれたので「レヴァント貿易」とも言われた。イタリア商人はレヴァント地方でムスリム商人(イスラーム教徒)によって南インドなどから運ばれた胡椒などの香辛料を買い取り、イタリアに持ち帰るようになったので、イタリアの諸港と東地中海にまたがる地中海商業圏の交易が盛んになった。

レヴァント地方

 Levant とは西ヨーロッパから見て「東方」を意味する。もともとは「太陽の昇る地」の意味(ローマ時代のオリエントにあたる)であったが、13世紀以降は具体的には地中海東岸から小アジアにかけての一帯を指すようになった。10世紀頃から盛んになったイタリア商人とレヴァント地方の貿易はレヴァント貿易といわれたが、日本では東方貿易と訳されている。また、1581年に創設されたイギリスのオスマン帝国との貿易独占を認められた特許会社もレヴァント会社と称した。

十字軍運動

 11世紀末に十字軍運動が開始されると、北イタリアのヴェネツィアや、ジェノヴァがその出港地となったこともあって、東方貿易の拠点は北イタリアに移動した。北イタリアにもたらされた商品は、陸路をフランスや北ドイツに運ばれ高値で売られた。

商業の復活

 大まかに言えば、中世ヨーロッパは封建社会であるので、自給自足経済が基本であり、かつてのローマ帝国時代には盛んであった貨幣経済は衰退したとされている。しかし、封建社会が成熟するなかで、三圃制農業や鉄製重量有輪犂の普及など農業生産力の向上が始まり、生産力の安定が人口増加をもたらされた結果、徐々に社会構造の変化が進んでいた。東方貿易の発展の背景には、そのような生産力の向上・人口の増加がどの社会的変化があり、それらが結びついてヨーロッパの地中海域と内陸を結ぶ交易網が発達し、交易の要地には新たな都市が生まれ、ヨーロッパの商業が復活した。このことを商業ルネサンスとも言っている。 → 西ヨーロッパ中世世界の変容

12世紀ルネサンス

 また東方貿易でのムスリム商人との接触は、文化的な交流も生みだし、ヨーロッパキリスト教世界の文化や技術よりも高い水準にあったイスラーム文化の影響を受け、12世紀ルネサンスといわれる新しい潮流が生まれ、やがてそれが本格的なルネサンスにつながっていく。

東方貿易の衰退

 この東方貿易は、15世紀になるとオスマン帝国が東地中海に進出し、さらにエジプトを征服して、商人の活動を制約したために次第に衰え、ヨーロッパの香辛料の需要は、アジアと直接取引できる新たなルートを開拓する必要を生み出した。それが15世紀末に活発になる、「大航海時代」のインド航路の開拓であった。
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