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元老院

古代ローマの共和政から帝政まで続いた最高機関。貴族から選出された終身議員によって構成され、当初は諮問機関であったが、共和政では最重要の決議機関となる。帝政期の元首政の下でも存続したが専制君主政下では有名無実化した。

ローマ共和政の基本的な機関

 古代ローマの共和政から帝政まで一貫して国家の最重要機関となったもので、ローマ市民(成年男子)が参加する民会に対し、貴族(パトリキ)のみから議員が選ばれる。ローマの公共広場(フォルム)に建物があった。定員は当初300人で、議員は30歳以上、いったん選出されると終身議員であった。初めはローマ共和政の中心となったコンスル(執政官)や独裁官の諮問機関という位置づけであったが、次第に元老院がコンスルを牽制する存在となり、大きな力を持つようになる。
元老院の意味 元老院はラテン語でセナトゥスというが、この言葉には高齢者(セネス)という意味が含まれていた。また、元老院議員は「父たち」を意味するパトレスと呼ばれた。彼らは原始的な部族社会から続く、長老たちの子孫であったと言えよう。王政時代には王に対して助言する顧問の役目をはたし、共和政時代になると最高議決機関である民会、執行機関である執政官などに対して最高諮問会議の役割をもった。英語のsenate(上院)、senator(上院議員)はローマのセナトゥス senatus に由来し、現代のアメリカでも上院は senate という。また、共和政ローマ時代の記念碑に必ず刻印された「SPQR」は、Senatus Populusque Romanus (元老院とローマ市民)の頭文字で、共和政の理念を示している。

元老院の実際

 元老院議員は欠員が生じたとき、コンスルなどの公職経験者から、ケンソル(戸口監察官)が有資格者を選定した。会議は通常、コンスルが召集し、主宰公職者が提案した議題を審議した。発言は議員経験の長いものから順番に行われ、反対討論もあった。議員の発言が終わると採決に入り、採決は議員たちが歩いて賛否の二方向に分かれることでおこなわれた。ローマ帝国となっても元首政(プリンキパトゥス)の時代には元老院は存続し、皇帝も会議を招集した。<島田誠『古代ローマの市民社会』世界史リブレット③ 1997 山川出版社 p.46-48>

元老院が力を持った理由

 コンスル(執政官)は、平民の参加する兵員会で選出され、元老院を召集したり、会議の議題を決める権限を有していたので、元老院は一見、諮問機関に過ぎないように見えるが、権力の独占を避けるためにコンスルは任期が一年と定められていたのに対し、元老院議員には任期が無く、終身の地位であった。そのため、元老院議員の方が経験を蓄積し、信望を得るようになった。戦争の開始と終結、凱旋式の承認、条約締結などの決定権は元老院が握るようになり、共和政中期にはローマの実質的な最高議決機関として機能するようになった。<青柳正規『ローマ帝国』1994 岩波ジュニア新書 p.26-27>

Episode 今も続くSPQR

(引用)今日でもローマの町を訪れると、あちらこちらにS.P.Q.R.と記された四字の略号を目にする。マンホールのふたに、公示板に、はては落書きにまで登場する。いわく「ゴミを捨てるべからず!S.P.Q.R.」。これこそローマ人がみずからの国家を指すために用いる略号であった。その意味するところは Senatus Populusque Romanus (ローマの元老院と民衆)である。もちろん、いまどき見かける表示は、現在のイタリア人が冗談半分に書いたもの。現代日本になぞらえば、東京都のマンホールに「大日本帝国」とあったり、奈良市の公示版に「ゴミ収集は月曜日のみ!大和朝廷」と書いてあるようなものだ。<桜井万里子/本村凌二『ギリシアとローマ』世界の歴史5 1997 中央公論新社>

新貴族の出現

 前5世紀からローマの半島統一戦争が進むにつれて、重装歩兵となって活躍した平民(プレブス)の発言権が強くなり、身分闘争が展開された結果、前367年にリキニウス・セクスティウス法が制定され、法的には貴族と平民の差が無くなった。その結果、平民の中でも財産のある者、富裕な者がコンスルを初めとする政府高官になるようになった。彼らは、元老院議員にも選ばれるようになり、新貴族(ノビレス)といわれるようになる。

閥族派と平民派の対立

 前3世紀にポエニ戦争が始まり、ローマが海外に属州をもつようになると、都市国家・共和政ローマの維持が難しくなってきた。その中で台頭したのが、属州の徴税請負人などとして利益を得、さらに貴族には認められていなかった金融業などで富を蓄えた騎士(エクイテス)が台頭した。彼らは元老院を拠点として既得権を守ろうとする貴族(新貴族も含む)と対立するようになる。彼らの利益を代表し元老院の権威に挑戦したのが平民派で、それに対して元老院の特権を守ろうとしたのが閥族派である。この両派の対立は前1世紀の「内乱の1世紀」をもたらすこととなった。平民派のマリウスが一時期権力を握り、元老院はその力を無くしたが、マリウスの死後、ローマに帰還して武力制圧した閥族派のスラは、平民派を一掃し、元老院を復権させ、その議員定数を300から600に増員した。

カエサルの改革

 カエサルはかつて執政官だったとき、元老院に対して『日報』の公開を義務づけ、その神秘性を否定したことがあった。さらに独裁者として権力を一身に集め、つぎつぎと元老院の権限を奪っていくと、元老院を中心とした古来のローマ共和政が否定されると恐れた共和派のブルートゥスらが、カエサルを暗殺した。しかし、ブルートゥスらのねらいは共和政治の維持と言うより元老院の既得権を守ろうとするものに過ぎなかったから民衆の支持を受けることが出来なかった。

帝政と元老院

 カエサルの後継者をめぐってアントニウスとの争いに勝利したオクタウィアヌスは、カエサルの失敗を繰り返さないため、元老院に一定の配慮をし、それを存続させ、尊重する姿勢を取った。元老院は彼にアウグストゥスの称号を与え、アウグストゥスも「市民の第一人者」として元老院の承認のもとで統治するというプリンキパトゥス(元首政)がおこなわれることになった。
 ローマ帝国の元首政の下では、ローマ皇帝は元老院議員の中の最上位者として位置づけられ、元老院議員も執政官以下の政務や軍団の将軍などの軍務、さらに属州総督などを分担して皇帝の政治を支えた。元老院はこの段階でも最重要の政治機関であった。帝位継承に際しても、先帝の養子であることや軍隊の強い支持で推薦された者が、元老院の承認(しばしば形式的であったが)が必要とされた。ただし、皇帝の中には自己の腹心の解放奴隷などを重用して元老院議員と対立し、しばしば政情不安な状態となることもあった。
暴君と賢帝の違い カリグラ帝、ネロ帝、コンモドゥス帝など、暴君と言われた皇帝の多くは元老院と対立して議員を処刑したりすることが多かったので暴君とみられたのであり、一方の五賢帝に代表される皇帝たちは、おおむね元老院議員と協調して政治の安定に成功したので、賢帝といわれるのである。

元老院の新興勢力

 しかし、ローマ帝国が地中海世界を支配し、属州が帝国の重要な構成要素となってくると、属州出身者が中央政界にも進出するようになった。五賢帝のトラヤヌスハドリアヌスはともに属州ヒスパニアの出身であり、軍隊を支持基盤としていた。元老院議員の構成も旧来のパトリキノビレスの血統を受け継ぐ旧貴族に替わって、騎士身分(エクイテス)で元老院議員に登用される者が増えててきて、さらに属州出身者も多くなっていった。次第にそのような新興勢力が官僚や軍人として皇帝の政治を支えるようになっていった。