オリンピアの祭典/古代オリンピック
オリンピアの神々に奉納されたスポーツの祭典。古代オリンピックは前8世紀に始まり、キリスト教のローマの国教化にともない4世紀末に終わった。
古代ギリシアのペロポネソス半島の西北にあるオリンピア(オリュンピアとも表記)の神域で、祭神ゼウスに捧げる神事として行われた競技会。開催場所はアテネではないこと、またオリンポス山(ギリシア北部にあり、十二神が住むとされている山)とも違うことに注意。オリンピアの地は、デルフォイとともにどのポリスにも属さず、ギリシア全体の崇拝を受ける地であった。古代オリンピック消滅後、長く荒廃していたが、1766年にイギリス人のチャンドラーという人が発見し、発掘が始まった。現在も断続的に発掘が続いている。
前580年からはペロポネソス半島西北のエリスという小ポリスが主催権を持つようになり、大国に左右されなかったため長く存続できた。競技会は4年に一度開催され、全ギリシアの祭事でであり、その間は「神聖な休戦」といわれて戦争は中止された。参加するのはギリシア人の男性市民のみで、全裸で競技した。現在の陸上競技やレスリングなどが主な種目であり、水泳はなかった。もちろん柔道も。全裸といっても重装歩兵の格好で走る競技はあったという。最も人気があったのは戦車競争だった。勝利者にはオリーブの冠のみが与えられ、それが名誉なこととされる、本来のアマチュアリズムの精神であった。
しかしローマ時代末期、テオドシウス帝のキリスト教国教化(392年)に伴い、オリンピア教義は異教的な祭りとして否定され、393年を最後に停止された、といわれている。
それが近代オリンピックとして復活するのは、フランスのクーベルタンの提唱によって第1回近代オリンピックがアテネで開催された、1896年のことである。2004年夏、21世紀最初のオリンピックがアテネで開催された。<桜井万里子・橋場弦編『古代オリンピック』2004 岩波新書 などによる>
オリンピア競技会の始まり
オリンピック競技会の最古の記録は紀元前776年にさかのぼる。ギリシアではオリンピア開催年を基準に年代を数えたので、この年がその起点となっている。この前8世紀は、まさにギリシアのポリス(都市国家)が形成されつつあった時期であった。オリンピアの祭典は、デルフォイの神事と並び、ギリシア人がヘレネスとして同一の世界を形成していることをたしかめるポリスの枠を越えた“国際的祭典”として挙行したものであった。前580年からはペロポネソス半島西北のエリスという小ポリスが主催権を持つようになり、大国に左右されなかったため長く存続できた。競技会は4年に一度開催され、全ギリシアの祭事でであり、その間は「神聖な休戦」といわれて戦争は中止された。参加するのはギリシア人の男性市民のみで、全裸で競技した。現在の陸上競技やレスリングなどが主な種目であり、水泳はなかった。もちろん柔道も。全裸といっても重装歩兵の格好で走る競技はあったという。最も人気があったのは戦車競争だった。勝利者にはオリーブの冠のみが与えられ、それが名誉なこととされる、本来のアマチュアリズムの精神であった。
Episode オリンピア競技を観戦した女性
古代オリンピア競技は、女性の観戦が許されていなかった。そんななかで、例外的に観戦が認められた女性がいたことを、アイリアノス『ギリシア奇談集』が伝えている。(引用)ペレニケが、息子を競技に参加させるために、オリュンピア祭に連れていった時のことである。競技役員が彼女に競技の観戦を拒むと、役員たちの前に進み出て、自分の父はオリュンピアで優勝した人間であること、三人の兄弟もそうであること、さらには自分の息子もオリュンピア競技の参加選手であることを論じたてて、とうとう市民たちを説伏し、女性の観覧を禁じた法規にも勝ってしまった。こうしてペレニケはオリュンピア競技を観覧することができたのである。<アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p.269>
オリンピア競技会の終わりと復活
オリンピア競技会はポリスが衰退してもギリシアの祭事として続けられ、ローマ時代にギリシアはローマの属州となったので、ローマ帝国圏の国際行事化した。皇帝ネロもスポーツ、芸能を好み、自ら競技に参加した。しかしローマ時代末期、テオドシウス帝のキリスト教国教化(392年)に伴い、オリンピア教義は異教的な祭りとして否定され、393年を最後に停止された、といわれている。
それが近代オリンピックとして復活するのは、フランスのクーベルタンの提唱によって第1回近代オリンピックがアテネで開催された、1896年のことである。2004年夏、21世紀最初のオリンピックがアテネで開催された。<桜井万里子・橋場弦編『古代オリンピック』2004 岩波新書 などによる>
Episode 異説 古代オリンピックも金が目的
勝利者にはオリーブの冠のみが与えられ、それが名誉なこととされる、本来のアマチュアリズムの精神であった、と書いたが、これには異説がある。どうやらこの方が真実そうだ。(引用)実際には、オリンピア競技ではすでに2500年前からアマチュアなど存在していなかった。競技者はプロだった。そしてこれらの職業競技者は、おおむねひどく偏った能力の持ち主で、訓練も偏ったものだったが、その競技者としての成功の狙いは常に巨額の金だった。<ゲールハルト・プラウゼ/森川俊夫訳『異説歴史事典』1991 紀伊國屋書店 p.136-141>プラウゼによれば、たいていの場合、勝利者とその家族は市役所プリュタネイオンで日々正餐を取る終身の権利を得、あるいは年金が出るか租税が免除されるかした。金品の贈与もよく行われ、アテネの政治家ソロンはアテネ出身のオリンピア勝利者すべてに500ドラクマを支給させた。競技者はオリンピア競技会だけでなく、定期的に開かれる大小の競技会を転々と渡り歩いていた、という。どうやら我々は、近代オリンピックのアマチュアリズムという幻想にまどわされ、古代にまで美しい姿を求めすぎているのかもしれない。
「オリンピック停戦」は守られた
古代ギリシアでは4年に一度、オリンピック開催に先立ち、オリンピアから各都市国家に、オリーブの輪をいただいたオリンピック停戦布告の使者がたった。オリンピックの前後三ヶ月間(当初は一ヶ月間)、オリンピックに参加する都市国家と植民地はすべて、武器を取ることを放棄すべしというものだ。主目的は地中海世界各地に広がっている植民都市から、権力者を含む観客と選手を、安全にオリンピアまで渡航させることだった。鍛え抜かれた選手は戦力でもあったろうから、オリンピックを成功裏に開催する上で、停戦は不可欠だった。(引用)そして驚くべきことに、五輪停戦は守られた。記録によれば、停戦が破られたのは、マケドニアの兵士がアテネ市民を強奪した小事を除けば、わずかに二度ないし三度。それも、五輪を主催する伝統的的権利をめぐって、オリンピア近在で起こった小競り合いが原因だった。アテネとスパルタが、各都市国家をそれぞれ巻き込んで激しく戦ったペロポネソス戦争中でさえ、五輪を主催するエリス人がアテネ側についたため、スパルタの襲撃を恐れて軍隊で五輪会場周囲を警備したという事実以外、実際に停戦期間に戦争は起きていない。それにしても、すごいことだ。古代五輪が続いた紀元前776年から紀元後393年までの1169年間、ただの一度も戦争によって五輪が中止になったことはなかったのだ。<結城和歌子『オリンピック物語 古代ギリシアから現代まで』2004 中公新書ラクレ p.15>