ネルウァ
1世紀末、元老院の指名により帝位につき、以後は安定した帝位継承が続き、ローマ帝国が最も栄えた時期となった五賢帝の時代の最初の皇帝となった。
ローマ帝国の全盛期とされる五賢帝の最初のローマ皇帝。Nerva は、かつてはネルヴァと表記していたが、現在はネルウァとすることが多い。96年、前帝ドミティアヌスが暗殺され、継嗣がなかったので、元老院は議員の中からネルウァを指名した。彼は元老院にはかりながら政治を行い、97年にトラヤヌスを養子に選び、翌98年に死去、トラヤヌスが帝位を継承した。これ以後、養子を後継とした皇帝の交代が行われる。ネルウァは五賢帝の最初とされるが、政治面に特筆すべきことはなく、このトラヤヌスを後継に指名したことが功績とされる。
ネルウァ(正式にはマルクス=コッケイウス=ネルウァ)は中部イタリアのナルニアの法律家で元老院議員の家系に生まれ、ウェスパシアヌス帝、ドミティアヌス帝の時期に執政官(コンスル)を務め、名声があった。ドミティアヌス帝の暗殺という予期せぬ出来事により、66歳で皇帝となった。もっとも前皇帝暗殺を事前に知っていたという説もある。<南川高志『ローマの五賢帝――「輝ける世紀」の虚像と実像』1998 初刊 2014 講談社学術文庫再刊 p.57>
※従来、ネルウァが何の血縁関係もないトラヤヌスを養子に選んだのは、トラヤヌスが有能、有徳ですぐれた人物であったためであり、有徳の人物を養子として迎えて皇帝とすると言う「養子皇帝制」ともいえる美風が五賢帝時代の繁栄をもたらしたと評価されていた。しかし、実際にトラヤヌスが選ばれた理由は、多分に政治的な背景から最も無難な人物、バランスのとれる人物であったことである。また、次期皇帝を養子としたのは帝位継承を安定させるためではなく、現実に実子がいなかったため、やむなく擬制的な親子関係を作り上る必要があっただけであると考えた方がよさそうだ。 → 五賢帝及び各皇帝の項を参照
ネルウァの帝位継承
ネルウァの先代のドミティアヌス帝はウェスパシアヌス帝の次男で、兄のティトゥス帝に次いで皇帝となった(フラウィウス朝)。父と兄の時には堅実な帝国の運営が行われたので評価が高いが、ドミティアヌス帝は元老院議員などにも厳しく当たり、恣意的とも言える処刑を行ったりしたので、「暴君」とか「第二のネロ」などと評価されている。それは元老院との調和の上に成り立っていたローマ皇帝政治(元首政)のあり方に反したことであったので、反発も強かった。96年9月18日、ドミティアヌス帝が宮廷内で自身に仕える侍従に殺害されたのも、その恐怖政治に対する反発だった。そしてその日のうちに元老院はネルヴァを皇帝に指名した。ネルウァ(正式にはマルクス=コッケイウス=ネルウァ)は中部イタリアのナルニアの法律家で元老院議員の家系に生まれ、ウェスパシアヌス帝、ドミティアヌス帝の時期に執政官(コンスル)を務め、名声があった。ドミティアヌス帝の暗殺という予期せぬ出来事により、66歳で皇帝となった。もっとも前皇帝暗殺を事前に知っていたという説もある。<南川高志『ローマの五賢帝――「輝ける世紀」の虚像と実像』1998 初刊 2014 講談社学術文庫再刊 p.57>
老人政治
96~98年のわずかな期間であったが、ネルウァ帝は前帝の恐怖政治で失脚していた元老院議員などを復活させ、政治秩序の再建に努めた。彼自身がすでに66歳であったが、自ら正規執政官に就任すると共に、同僚に80歳をこえている人物を引っ張り出したり、補充執政官に65歳や73歳の人物を選ぶなど、経験豊かな人物を要職に就けた。これは「老人政治」と揶揄されることもあるが、元老院の伝統的な権威を尊重したことを示しているとも言える。しかし、前帝を支持していた近衛隊など軍隊は、前帝暗殺犯の処刑を要求し、不穏な動きがあった。ネルウァは皇帝暗殺犯を処刑して近衛隊らの要求にも応え、反乱を抑えた。<南川高志『前掲書』 p.60>トラヤヌスを養子とする
ネルウァ帝の即位は、後に五賢帝の時代の始まりとされるような安定したものではなく、実は前帝暗殺事件後の緊張が続く、不安定な中で行われたのだった。そのような中、翌97年の10月27日、ローマ市の中心カピトリウムの最高神ユッピテルの神殿において、当時属州上部ゲルマニアの総督として首都に不在であったトラヤヌスを養子とすると宣言した。なんら血縁関係のないトラヤヌスを選んだ理由には諸説あって明確なところは判らないが、これによって近衛隊の反抗が収まったという事実に、その意味があると考えられる。ネルウァは養子縁組を行った翌98年1月27日に世を去り、トラヤヌスは混乱なく皇帝に即位した。<南川高志『前掲書』 p.73>※従来、ネルウァが何の血縁関係もないトラヤヌスを養子に選んだのは、トラヤヌスが有能、有徳ですぐれた人物であったためであり、有徳の人物を養子として迎えて皇帝とすると言う「養子皇帝制」ともいえる美風が五賢帝時代の繁栄をもたらしたと評価されていた。しかし、実際にトラヤヌスが選ばれた理由は、多分に政治的な背景から最も無難な人物、バランスのとれる人物であったことである。また、次期皇帝を養子としたのは帝位継承を安定させるためではなく、現実に実子がいなかったため、やむなく擬制的な親子関係を作り上る必要があっただけであると考えた方がよさそうだ。 → 五賢帝及び各皇帝の項を参照