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プリンキパトゥス/元首政

ローマ帝国で前27年のアウグストゥスに始まった、共和政を基盤として残した上に皇帝が君主として統治するという政治体制をいう。3世紀末まで続いたが、ディオクレティアヌス帝の時に専制君主政に移行する。

 ローマ帝国の前期の政治体制。前27年、オクタウィアヌスアウグストゥスの称号を与えられたが、彼自身は自らを「市民の中の第一人者」の意味でプリンケプスと呼ばれることを望んだ。それは、アウグストゥス(皇帝)の地位は、あくまで市民の中から選ばれ、市民を統治するものであるという共和政の理念を維持するためであった。実態は皇帝はすべての権力を集中させていたとしても、形の上では元老院や民会、執政官や護民官も継続されている体制であった。そのような共和政を基盤とした帝政のあり方を、「プリンキパートゥス(元首政)」という。これは帝政後期の3世紀末のディオクレティアヌス帝の時から「ドミナートゥス(専制君主政)」に変わる。

元首政の実際

  • 民会の機能停止 ローマ市以外に居住するローマ市民権を持った市民が多くなることによって、民会は運用が困難になった。アウグストゥスの時、不在者投票を認めるなど民会の維持が図られたが、同時に公職者選挙は民会に先立って元老院議員と上位のローマ騎士によって選定される予備選挙が導入され、さらに第2代皇帝ティベリウスの時には公職者の選挙は民会から元老院に移管された。民会の立法機能も、次第に元首の勅法(元首が定める法律)や元老院決議に移って行き、五賢帝の始まるころには民会での立法はおこなわれなくなった。<島田誠『古代ローマの市民社会』世界史リブレット③ 1997 山川出版社 p.57-58>
  • 元老院の変質 民会が議決機関として機能しなくなったため元老院は従来の諮問機関ではなく、上位公職者の選出や立法に関する最高議決機関に変質した。アウグストゥスは統治を安定させるには、かつてのグラックス兄弟のように元老院と対立するのではなく、それと共存し、その伝統的権威を利用する必要があると考えていた。そのため元老院を存続させたが、同時にそれをコントロールするため幾つかの改革をおこなっている。例えば元老院にアウグストゥスの意向を十分反映させるため、私的な元首顧問会を設置し事前協議をするようにした。また、終身の元老院議員は増加しつづけ、定員が1000名にもなっていたのを、きびしい再審査を実施して600名に削減した。<青柳正規『ローマ帝国』1994 岩波ジュニア新書 p.83-85>
  • 騎士階級の重用 元首に権力が集中し、全帝国の半分の属州の総督となったことにより、元首を補佐する役人のポストが増えて行き、それらの新しい公職が生まれた。増加した公職には元老院議員とローマ騎士が就任し、元首政を支えた。特に人的資源となったのが、元老院議員ではない下級貴族である騎士階級(エクイテス)であった。一定の財産と名声があれば名門出身でなくとも騎士になれ、アウグストゥスは属州出身者でも可能にした。その時期に登用された騎士出身の官僚は数千人に上ったという。彼らは軍隊を経験してから役人として勤務し、実務経験を積んで中には高位につく者もあった、アウグストゥスから始まる元首政の時代には、行政制度が確立し、官僚組織が充実し、それを騎士階級が支えた、ということができる。<青柳正規『同上書』 p.86-88>