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アントニヌス勅令

212年にカラカラ帝が制定した、ローマ帝国内の全自由民にローマ市民権を付与した法令。一般に万民法と言われている。

 212年ローマ帝国カラカラ帝が出した勅令(皇帝の定めた法令なので勅令という)で、帝国内のすべての自由民にローマ市民権を与え、ローマ法をすべての人に適用する万民法としたもの。ローマ市民権の拡大をはかったものであるが、同時に相続税の増収を図るという狙いもあった。この勅令をアントニヌス勅令というのは、カラカラ帝のカラカラはあだ名で、その本名がマルクス=アウレリウス=アントニヌス(五賢帝の最後の皇帝と同名)であったからである。

ローマ市民共同体の終わり

(引用)この勅令は、ローマ帝国内のほとんどすべての自由人にローマ市民権を付与することを命じたもので、先ほどのローマ帝国の支配の構造で説明すれば、これによって従属共同体成員すなわちローマ法でいう外人(ペレグリーニ)がローマ市民権を与えられて、外人ではなくなったのである。これ以後、少数の例外を除いて、奴隷でない自由人はすべてローマ市民となった。ということは、ローマ市民権の有無を介してのローマ帝国の支配の構造、すなわちローマ市民共同体による従属共同体の支配という構造は、この勅令によって最終的にすてられたということである。すでにこれ以前において、皇帝を中心とする支配階級の地中海世界にたいする支配は、共同体を介する必要のないまでの強力になっていたからこそ、こうした措置が可能であったのであろう。<弓削達『地中海世界』新書西洋史② 1973 講談社現代新書 p.130>

ローマ市民権付与の理由

 カラカラ帝が市民権を帝国の全自由人に与えたのは、帝国内のすべての自由人をローマ帝国の「国民」として支配するためであった。市民権を与えることによって、ローマの神の前に等しく平等な国民となり、一致して皇帝の宗教的権威に従わせるという意図があった。
(引用)こうした行き詰まりを打開し、欠陥を除去して迫害の新しい局面を準備したものは212年のアントニヌス勅法である。……この勅令は帝国内の全自由人にローマ市民権を与え帝国支配の構造に大転換をもたらしたものとして重要であるが、ローマ市民権付与というこの措置をとる理由として次のようにのべられている。自分は神々によって非常な危機から救われたので、その感謝のしるしとして、帝国内のすべての人々を神の祭壇に導くために、すべての人にローマ市民権を与える、と。これは帝位の安全を神々の祭祀に求める宗教的イデオロギーの表明である。皇帝としては、国民が全部一致して神々に供儀するように強制したい、そのためにローマ市民権を付与する、というのである。<弓削達『地中海世界』新書西洋史② 1973 講談社現代新書 p.161,162>
 このような宗教的イデオロギーに抵抗するキリスト教徒は、したがって弾圧する対象とされたのだった。 → キリスト教迫害

Episode ローマの皇紀千年祭

 軍人皇帝時代の危機のさなか、デキウス帝は危機を乗り越えるために、248年にローマ建国千年祭を行い、249年に国民全部に対する供犠命令を出し、役人の前で供犠したものには供犠証明書が下付され、拒否した者(キリスト教徒)は処刑された。太平洋戦争を前にして行われた「皇紀二千六百年祭」の国民精神総動員といわば伊勢神宮参拝を命じた趣旨にあたる。<弓削達『同上書』 p.162>