ローマ市民権
都市国家ローマにおける市民権。本来は都市ローマ居住の自由民だけであったが、その支配領域の拡張に伴い、ローマ居住者以外にも市民権が付与されていった。前89年にはイタリア半島の全自由民に付与され、212年には帝国領内に拡大された。ただし、ギリシアと同じく、女性と奴隷は常に除外された。
はじめは都市国家としてのローマに居住し、義務を果たすもののみが市民とされ、ローマの発展は彼等ローマ市民が支えていた。ギリシアのポリスの市民は、アテネにおける市民権法の定めが、アテネ居住者のみに市民権を認めていたように、ポリス住民以外に拡大されることはなかった。ローマも都市国家として始まった当初は、ローマ居住者の自由民のみに市民権が認められ、十二表法に始まる市民法によって、その権利が守られるとともに、市民の義務であった兵士として兵員会に登録されることと、ローマを35に分けた区(トリブス)のいずれかに属することによって、民会に直接参加してローマ共和政が行われていた。
ところが、ローマが周辺の都市国家を従え、さらにイタリア半島を統一し、最後には地中海世界全域を支配するローマ帝国に成長・変質していく過程で、ローマ市民権も拡大した。ローマはギリシアと異なり市民権拡大には寛容であった点が、ギリシアのポリス民主政との異なる点である。 → ローマ共和政、ギリシアの民主制との相違点
イタリア半島の同盟市は、ローマの海外戦争に協力したにもかかわらず、市民権が認めらていないことに強い不満を持つようになった。半島内の同盟市の自由民の中に、次第に市民権を求める声が強まり、前91~前88年にイタリア同盟市戦争が起こった。ローマはその鎮圧に手こずる間、小アジアでミトリダテス戦争が起こったため、兵力確保のためにも同盟市に妥協せざるを得なくなり、前88年に同盟市の市民にも市民権を与えることとした。これによってイタリア半島の全自由民に市民権が認められたことになるが、海外の属州の自由民(ラテン人以外が多い)には依然として市民権は認められなかった。
市民権拡大の意味 ローマ市民権が半島の全イタリア人にあたえられたことで、それまで独立した都市であった同盟市はローマの地方共同体にすぎない存在となった。地域的な自治はゆるされたが、共同体個々にはもう国家的性格はなくなってしまった。こうしてイタリアのローマ化の完成は、現実にはローマが都市国家ではなくなったことを意味する。代議制を知らないローマの民会も、有名無実なものになった。<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰―古典古代の市民たち』初版1967 再刊1993 講談社学術文庫 p.206>
そのようななかで、3世紀初めのカラカラ帝の時、帝国内の全自由民にローマ市民権を与えるアントニヌス勅令が公布された。これによって全自由民は(ラテン人でなくとも)市民権が与えられることとなり、ローマは法的にも世界帝国となったといえる。また、これによってかつてはローマ市民だけに適用されていた市民法は、万民法としての性格を持つようになり、ローマの法律がローマ帝国滅亡後も普遍的な規範として生き長らえ、ローマ法として尊重されることとなった。
ところが、ローマが周辺の都市国家を従え、さらにイタリア半島を統一し、最後には地中海世界全域を支配するローマ帝国に成長・変質していく過程で、ローマ市民権も拡大した。ローマはギリシアと異なり市民権拡大には寛容であった点が、ギリシアのポリス民主政との異なる点である。 → ローマ共和政、ギリシアの民主制との相違点
ローマ以外の都市への市民権付与
イタリア半島統一戦争の過程で服属した都市の上層市民にはローマ市民権を与え懐柔する必要が出てきた。まず、征服地にローマ市民が入植してつくった植民市には自由民全員に市民権を与え、ローマに協力的であった都市で自治市とされた都市では、上層市民に市民権と自治権を与えた。こうしてローマ居住以外のローマ市民も形の上ではローマの35の区(トリブス)に属するものとされ、直接民主政の原則であるから、ローマまで行かなければ意見を反映させる機会はなかった。またローマと戦って服属し、従属することになった都市は同盟市とされたが、同盟市の市民には市民権を与えなかった。また、同盟関係はローマとだけ認められ、都市間では同盟はできないという、分割統治の方策がとられていた。前88年、半島全域への拡大
前4世紀後半~前3世紀にかけて、サムニウム戦争などの半島統一戦争が進み、ローマはイタリア半島のほぼすべてを支配するようになった。そして前3~前2世紀にはポエニ戦争、マケドニア戦争など海外での戦争が続き、ローマ共和政は大きく変貌することとなった。イタリア半島の同盟市は、ローマの海外戦争に協力したにもかかわらず、市民権が認めらていないことに強い不満を持つようになった。半島内の同盟市の自由民の中に、次第に市民権を求める声が強まり、前91~前88年にイタリア同盟市戦争が起こった。ローマはその鎮圧に手こずる間、小アジアでミトリダテス戦争が起こったため、兵力確保のためにも同盟市に妥協せざるを得なくなり、前88年に同盟市の市民にも市民権を与えることとした。これによってイタリア半島の全自由民に市民権が認められたことになるが、海外の属州の自由民(ラテン人以外が多い)には依然として市民権は認められなかった。
市民権拡大の意味 ローマ市民権が半島の全イタリア人にあたえられたことで、それまで独立した都市であった同盟市はローマの地方共同体にすぎない存在となった。地域的な自治はゆるされたが、共同体個々にはもう国家的性格はなくなってしまった。こうしてイタリアのローマ化の完成は、現実にはローマが都市国家ではなくなったことを意味する。代議制を知らないローマの民会も、有名無実なものになった。<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰―古典古代の市民たち』初版1967 再刊1993 講談社学術文庫 p.206>
帝国全土への市民権拡大
前1世紀末、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスが勝利し、その支配権が全地中海に及んだ。彼はアウグストゥスの称号を贈られ、皇帝としてローマ帝国を統治することなった。その統治は都市国家の形態をとることができなくなり、形式的には元老院や民会が存在したが、それは実質的には機能せず、帝国は皇帝によって統治され、属州は総督によって統治される形態へと移行した。そのようななかで、3世紀初めのカラカラ帝の時、帝国内の全自由民にローマ市民権を与えるアントニヌス勅令が公布された。これによって全自由民は(ラテン人でなくとも)市民権が与えられることとなり、ローマは法的にも世界帝国となったといえる。また、これによってかつてはローマ市民だけに適用されていた市民法は、万民法としての性格を持つようになり、ローマの法律がローマ帝国滅亡後も普遍的な規範として生き長らえ、ローマ法として尊重されることとなった。