プラティーハーラ朝
北インドのラージプート諸国の一つで最も有力だった。9世紀を中心に、ベンガルのパーラ朝、デカンのラシュトラクータ朝と抗争した。11世紀はじめ、北西からイスラーム勢力のガズナ朝の侵攻を受け滅亡した。
8~11世紀にインドのラージプート時代に、ガンジス川中流域(北インド)で有力となったラージプート諸国の一つ。中央アジアから移動してきたという説と北インド土着説があるが、彼ら自身は正統クシャトリヤの末裔(ラージプート)と称した。ヴァルダナ朝滅亡後のカナウジを都とし、9世紀に全盛となり北インド全域をほぼ支配した。同じ時期に、ベンガル地方には非ラージプートであるパーラ朝、デカン高原にはラーシュトラクータ朝があり、三王朝は三つどもえで抗争した。
さらにガンジス川流域に進出してカナウジを都として北インドの覇権をラシュトラクータ兆・パーラ朝と争った。9世紀のボージャ1世(在位836~885年)の時代に全盛期を迎えたが、10世紀に入ると長い三国抗争で疲弊したために次第に衰退し、各地で有力なラージプート諸侯が自立し領土を失った。
ラージプート諸国の一つ
プラティハーラ朝は中央アジアから移住して西インドに定着したグルジャラ族に起源を持つという。グルジャラ族はラージャスタン地方で幾つかの小国を興したが、そのうちの一つプラティハーラ家が8世紀に有力となった。彼らは正統クシャトリヤの末裔と自称し、シンド地方に進出したアラブ人のイスラーム勢力を一時は撃退してヒンドゥー世界を防衛した。さらにガンジス川流域に進出してカナウジを都として北インドの覇権をラシュトラクータ兆・パーラ朝と争った。9世紀のボージャ1世(在位836~885年)の時代に全盛期を迎えたが、10世紀に入ると長い三国抗争で疲弊したために次第に衰退し、各地で有力なラージプート諸侯が自立し領土を失った。
イスラーム勢力の侵攻
プラティハーラ朝はシンド地方に勢力を伸ばしたイスラーム勢力とはよく戦い、その東進を阻んだが、次第に他のラージプート諸侯の独立によって衰退し、北西のアフガニスタンからパンジャーブ地方に侵攻したイスラーム教国ガズナ朝のマフムードによって、1018年にカナウジが破壊され、滅亡した。しかし、ガズナ朝は略奪を行ったものの、ガンジス流域には留まらず、パンジャーブに引き揚げたので、この時点では北インドがイスラーム化することはなかった。