マフムード
アフガニスタンのガズナを都とするトルコ系イスラーム教国ガズナ朝の王。11世紀初め、たびたび北インドに侵入し、略奪を行った。首都ガズナでイラン=イスラーム文化の保護にあたった。
アフガニスタンのトルコ系イスラーム王朝(スンナ派)、ガズナ朝の全盛期の王。在位998年~1030年。インドの富をねらって侵略を開始、1001年、カイバル峠を越えてガンダーラ地方に侵攻し、ペシャワールでシーア派の地方政権を倒した。1008年にはパンジャーブ地方を征服した。さらに数回にわたって北インドのラージプート諸国のヒンドゥー教国プラティーハーラ朝を攻撃、1018年にはその都カナウジを陥落させた。インドで略奪を繰り返した彼は、インドの歴史では「ガズナのマフムード」として記憶されている。1025年にはグジャラート地方の宗教都市ソームナートを破壊し、多数のヒンドゥー教徒を殺害した。ただし、ガズナ朝は中央アジア支配に力点を置き、インド侵入は略奪が主で、永続的に支配することはなかった。
マフムードの文化保護
なお、マフムードは文化の保護者としても知られ、ガズナの宮廷ではイラン=イスラーム文化が開化した。フィルドゥーシーの『シャー=ナーメ』はマフムードに献げられたものである。Episode 「聖戦」という名の略奪 ガズナのマフムード
<引用>ラージプート諸王朝が分立し抗争する北インドの政治的・軍事的状況は、マフムードの北インド侵攻を容易なものとし、遠征は17回にものぼった。「偶像破壊者」を自称し、イスラーム教の宣布と異教徒の打倒、改宗を掲げる彼の「聖戦」の真の目的は、インドの金銀財宝と奴隷、戦象の獲得であり、略奪した富を中央アジアにおける自己の覇権確立のための戦いに利用し、かつまたガズナの都を学問と文化の中心にするために役立てるためであった。・・・インドの土地に恒久的な支配を打ち立てようとはしなかった。しかし、彼は殺戮、略奪を徹底しておこない、パンジャーブから北インド、中央インドさらには西海岸の主要な寺院や都市を狙い撃ちに襲撃した。1018年その都カナウジを占領されたプラティーハーラ朝はその後まもなく滅亡した。1025年急襲を受けた寺院町ソームナートではバラモンをふくむ5万人以上の人々が殺され、無数の青年男女が奴隷としてガズナに連れ去られている。彼がインド遠征で奴隷として拉致した人数は合計75万人とも推計されており、ガズナの奴隷市場はインド人であふれていたといわれている。<佐藤正哲/中里成章/永島司『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 中央公論新社 1998 p.24-26>