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ラージプート

イスラーム勢力の侵攻に抵抗したインドのヒンドゥー教諸侯。8世紀以来、幾つかのラージプート諸国が興亡、イスラーム教国ムガル帝国成立後も抵抗を続けた。

 ラージプートとは、もともとはインド北西部のラージャスターン州を中心に、ガンジス川中流域に居住する人々の中の地主などの支配者層のカーストを言う。彼らをラージプート族、その国をラージプート諸国などといい、また7世紀後半から13世紀初頭のインドの分裂期をラージプート時代という。8世紀以来、ヒンドゥー教の強固な信仰によって結束したラージプート諸国は、アフガニスタンや中央アジア方面からのイスラーム勢力の侵入に対抗した。

主なラージプート諸国

 カナウジを都とした北インドのプラティーハーラ王国(800頃~1019年)、プラティーハーラ王国から分かれたチャンデーラ王国(10~11世紀)、チャーハマーナ王国(10世紀末~1192年)などがある。これらはいずれもガズナ朝のマフムード、ゴール朝のムハンマドとの戦いに敗れ、ついにアイバクがトルコ系イスラーム教国の奴隷王朝をデリーに建設して以来、デリー=スルタン朝というイスラーム政権の支配を受けることとなった。

ラージプート精神

 ラージプート諸族は、自らを古代クシャトリヤ族の日種、月種の後裔としているが、もともとはインド北西部から移住したパターン人、クシャーナ人、シャカ人などが定住し、いくつかの部族に分かれていったものと考えられる。9~10世紀頃、その中の特にパリハーラ、チャーハマーナ、チャールキヤ、パラマーラの四部族が支配的地位を独占するようになり、インド中部から西部に王国を築いていった。
 ラージプート諸族はいずれも好戦的で、騎士道精神を称揚した。王族の後裔であるという建前から、犂を手にして農業に従事することを嫌い、大きなカーストを形成していった。ヒンドゥー教を信奉することに熱心で、イスラーム教徒の侵入に対して徹底的に抵抗した。1857年のインド大反乱でイギリス軍と戦ったシパーヒー(セポイ)の大部分もラージプート族だったと言われる。<荒松雄他『変貌するインド亜大陸』世界の歴史 24 1978 講談社 p.63-68>

イスラーム支配下のラージプート諸侯

 ラージプート諸侯はその後もインドの小王侯として存続したが、16世紀のムガル帝国の成立後はそれに服属し、帝国を支える軍事力を構成していた。ラージプート族はヒンドゥー教徒であったので、ムガル帝国のアクバル帝はラージプート族の女性を妻とするなど、融和を図ったが、アウラングゼーブ帝の時代にはヒンドゥー教排除の政策を復活させたため、帝国から離反して独立するようになり、ムガル帝国は崩壊に向かった。
 なお、16~19世紀のムガル帝国時代に発展したインド=イスラーム文化の美術であるミニアチュールから派生した、宮廷中心のムガル絵画に対するヒンドゥー教の神々を題材にした絵画をラージプート絵画と言っている。

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