スールヤヴァルマン2世
12世紀のカンボジア王国アンコール朝の王。アンコール=ワットを造営した。チャンパなどを征服しカンボジア王国の領土を拡げた。
12世紀前半、カンボジアのアンコール朝の王。1113年に前王と争って勝利し、即位。チャンパー(現在の中部ベトナム)の首都ヴィジャヤを陥れ、西はビルマの国境までの広い範囲を支配して「征服王」といわれた。また30年の年月をかけてアンコール=ワットを造営した。アンコール=ワットは当初はヒンドゥー教寺院として造られ、東南アジアのヒンドゥー文化の最高傑作とされる。
スールヤヴァルマン2世自身は、アンコール=ワットの第一回廊の薄肉浮彫りに、将軍や軍隊とともに、その光輝あふれる像容をもって登場してくる。また碑文が王位をめぐる激戦を生々しく伝えている。王は「二王国を統一して王位を得た」、「一日続いた戦闘の結果、ダラニンドラヴァルマン国王は無防備の王位をスールヤヴァルマン王によって奪われた」、「王は戦場に大群を繰り出し、戦闘を交えた。王は敵王の象の頭に飛び乗り、王を殺した。ガルーダ(神鷲)が山頂で襲いかかって蛇を殺すようであった」などと記している。バラモンは1113年、スールヤヴァルマン2世の即位式を執り行い、武力による王位獲得を正当と認めた。その全盛期であった1125年ごろ、アンコール=ワットの建立に着手、完成に30年ほどを要したが、1150年ごろには王は亡くなったらしい。
クメール人は常に東の隣国チャンパーと争っていた。北の隣国ベトナムでは11世紀初頭に中国から大越国の李朝が独立し、この地域の政治的均衡が変化し、スールヤヴァルマン2世は即位するとすぐにチャンパーを攻め、ベトナムの大越国とも戦った。1128年と翌年に大越国を攻撃したが失敗、1132年にはチャンパーと共同して大越を攻めたが、それも失敗した。1145年、スールヤヴァルマン2世はチャンパーに侵入し、首都ヴィジャヤを取り、占領した。しかし、1150年、再度企てた大越遠征はやはり大敗を喫した。西の方では現在のタイ中部を攻撃したことがタイの年代記に記されている。
中国の『宋史』では、12世紀の半ば頃のクメール王国(真臘)は、北は占城(チャンパー)の南の国境、東は海、西は浦甘(パガン=ビルマ)、南は加羅希(マレー半島のグラヒ)に隣接すると言っており、南宋の1128年には中国皇帝が真臘王に高い位を与え、真臘王は中華帝国の偉大な進化として認められた、とも述べられている。スールヤヴァルマンの碑文は1145年を最後に見られなくなり、その没年は判らない。<石澤『同上書』p.144-145>
クメール人国家のカンボジア王国は、12世紀後半にジャヤヴァルマン7世が表れ、再び征服活動をかっぱにおこなって最盛期を迎え、都城のアンコール=トムを造営する。ジャワヴァルマン7世は、ヴィシュヌ神信仰には冷淡な仏教徒であったので、彼の時代にアンコール=ワットは仏教寺院に造り替えられることとなる。
アンコール=ワットを建造した王
スールヤヴァルマン2世は、なによりもまずアンコール=ワットの建立者として重要である。高校世界史の教科書ではアンコール=ワットは必ず出てくるが、スールヤヴァルマン2世には触れられていない。用語集のアンコール=ワットの説明文でその建立者として出てくるだけである。しかし、この貴重で壮大な建造物を残したこの王は、どのような人物で、またなぜこの大寺院を造営したのだろうか。スールヤヴァルマン2世自身は、アンコール=ワットの第一回廊の薄肉浮彫りに、将軍や軍隊とともに、その光輝あふれる像容をもって登場してくる。また碑文が王位をめぐる激戦を生々しく伝えている。王は「二王国を統一して王位を得た」、「一日続いた戦闘の結果、ダラニンドラヴァルマン国王は無防備の王位をスールヤヴァルマン王によって奪われた」、「王は戦場に大群を繰り出し、戦闘を交えた。王は敵王の象の頭に飛び乗り、王を殺した。ガルーダ(神鷲)が山頂で襲いかかって蛇を殺すようであった」などと記している。バラモンは1113年、スールヤヴァルマン2世の即位式を執り行い、武力による王位獲得を正当と認めた。その全盛期であった1125年ごろ、アンコール=ワットの建立に着手、完成に30年ほどを要したが、1150年ごろには王は亡くなったらしい。
(引用)偉大な王スールヤヴァルマン2世は、前王たちがこれまで使っていた都城を再使用することをせずにアンコール・ワットと新王宮を建立したのであった。おじのダランドラヴァルマン1世に死をもたらした「一日の戦い」のとき、王宮は徹底的に破壊されてしまったのである。それに新王はヴィシュヌ神を篤信していたので、それまでのシヴァ派の寺院を使用せず新寺院を建設することになったようである。その新王宮は新寺院の北側の、おそらく北象門の正面にあったと思われる。いずれにせよ、破壊されたアンコール=トム都城内の旧王宮は使われなかった。<石澤良昭『アンコール・王たちの物語』2005 NHKBooks p.133-134>
征服王スールヤヴァルマン2世
アンコール朝のスールヤヴァルマン2世時代は、中国との国交を再開し、北宋に1116年と1120年に朝貢の使節を派遣している(『宋史』)。王の意図はカンボジアの偉大さを海外にまで宣伝し、中国との交易を再開することであったらしい。クメール人は常に東の隣国チャンパーと争っていた。北の隣国ベトナムでは11世紀初頭に中国から大越国の李朝が独立し、この地域の政治的均衡が変化し、スールヤヴァルマン2世は即位するとすぐにチャンパーを攻め、ベトナムの大越国とも戦った。1128年と翌年に大越国を攻撃したが失敗、1132年にはチャンパーと共同して大越を攻めたが、それも失敗した。1145年、スールヤヴァルマン2世はチャンパーに侵入し、首都ヴィジャヤを取り、占領した。しかし、1150年、再度企てた大越遠征はやはり大敗を喫した。西の方では現在のタイ中部を攻撃したことがタイの年代記に記されている。
中国の『宋史』では、12世紀の半ば頃のクメール王国(真臘)は、北は占城(チャンパー)の南の国境、東は海、西は浦甘(パガン=ビルマ)、南は加羅希(マレー半島のグラヒ)に隣接すると言っており、南宋の1128年には中国皇帝が真臘王に高い位を与え、真臘王は中華帝国の偉大な進化として認められた、とも述べられている。スールヤヴァルマンの碑文は1145年を最後に見られなくなり、その没年は判らない。<石澤『同上書』p.144-145>
スールヤヴァルマン2世とヴィシュヌ信仰
スールヤヴァルマン2世時代は(ヒンドゥー教の)ヴィシュヌ派勢力が宮廷で優遇されたが、この時代のヴィシュヌ神に献じられた寺院が多いことで判る。ヴィシュヌ派はシヴァ派以上に霊魂の神秘を鼓吹したが、同じころカンボジアにはヴィシュヌ派の創始者ラーマーヌジュが登場し、ヒンドゥー教の宗教運動を行っていた。ラーマーヌジュは南インド生まれの哲学者・宗教家で、この時代の港市交易が活発だったことと、スールヤヴァルマン2世がビルマへの進出により、インド方面との交流が活発に名たことが考えられる。<石澤『同上書』p.146>クメール人国家のカンボジア王国は、12世紀後半にジャヤヴァルマン7世が表れ、再び征服活動をかっぱにおこなって最盛期を迎え、都城のアンコール=トムを造営する。ジャワヴァルマン7世は、ヴィシュヌ神信仰には冷淡な仏教徒であったので、彼の時代にアンコール=ワットは仏教寺院に造り替えられることとなる。