カンボジア/クメール王国
東南アジア、インドシナ半島中央部のメコン中流域にクメール人がクメール王国を建国した。12世紀のアンコール朝の時が全盛期で壮大なアンコール=ワットを建設したが、次第にベトナムとタイに圧迫されて衰退した。インドシナに進出したフランスによって、1863年に保護国とされた。第二次世界大戦後、カンボジア王国として独立したが苦難の道のりとなり、ベトナム戦争が拡大すると共に1970年からは深刻な内戦となった。1993年に和平が成立し、カンボジア王国が復活した。1999年にはASEANに加盟し、経済成長をめざしている。
地図① 現在のカンボジア
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18世紀以降にベトナムに進出したフランスは、ラオスとともにカンボジアにも進出、1863年にカンボジアを保護国化フランス領インドシナに編入された。第二次世界大戦後、シハヌークのもとカンボジア王国として独立したが、ベトナム戦争に巻き込まれアメリカの侵攻を受ける。1970年からは、深刻なカンボジア内戦に突入、一時独自の独自の共産国家建設を標榜するポル=ポト派が権力を握り、多くの反対派が虐殺された。1979年、ポル=ポト政権はベトナムの介入によって倒されたが、内戦はさらに続き、1991年国連の仲介で和平が実現、93年からはカンボジア王国が復活した。現在、内戦による国土の荒廃からの回復に努めている。首都はプノンペン。
カンボジア(1) 真臘・アンコール朝
クメール人がメコン川中、下流に建設した国家。7世紀に扶南を滅ぼしカンボジア王国(中国名真臘)を建国。アンコール朝の時の12世紀が全盛期。
地図②の7~8世紀ごろのカンボジア(真臘)は、メコン下流域の扶南を滅ぼし、現在のベトナム領コーチシナを含む範囲を支配していたことに注意すること。
7世紀初めのイーシャーナヴァルマン1世の時期にほぼ現在のカンボジア全域を支配。650年に即位したジャヴァルマン1世はメコン・デルタにまで支配を拡大した。しかし、681年の死後に地方勢力が台頭し、約2世紀の間、分裂が続いた。
中国名の真臘
真臘(シンロウ)の語源についてはわかっていない。唐以降の中国各王朝と交渉を持ったカンボジア王国を真臘といっていたが、8世紀頃までにはカンボジア西北部・東北タイを支配する陸真臘と、メコン・デルタと海岸部を支配する水真臘に分裂した。ついでアンコール朝が起こるがアンコール朝も中国では真臘といわれた。13世紀末にカンボジアを訪れた元の周達観が著した書物も『真臘風土記』という。インド化
この真臘も「インド化」した文明を持ち、ヒンドゥー教のシヴァ神・ヴィシュヌ神信仰を受け入れた。またインドの文字を取り入れたクメール文字を用いていた。8世紀中頃、北の陸真臘と南の水真臘に分裂したが、9世紀以降はアンコール朝のもとで全盛期を迎えた。カンボジアの全盛期 アンコール朝
アンコール朝の12世紀前半にスールヤヴァルマン2世はチャンパーなど周辺を征服し、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神を篤く信仰して壮大な寺院建築であるアンコール=ワットを建設した。また中国の宋に使節を送り、その朝貢国となった。その死後、一時衰えて首都アンコールをチャンパーに占領されたが、12世紀後半、1181年に即位したジャヤヴァルマン7世は首都を奪回し、同様に征服活動をおこなって版図を最大に広げ、都城であるアンコール=トムを再興した。現在見る東南アジア文明の代表的な文化遺産であるアンコール=トム周辺の多数の仏教寺院は、ジャヤヴァルマン7世は仏教徒であったことから盛んに建造されたもので、このときアンコール=ワットも仏教寺院に造り替えている。アンコール朝時代のカンボジア(クメール王国)は、12世紀にその歴史上最盛期を迎えた。領土は現在のカンボジアの周辺、南ベトナム(メコン=デルタ)、ラオスの大部分、タイの東部を含み、インドシナ半島最大最強の国家となった。現在のベトナム最大の都市ホー=チ=ミン市(サイゴン)、ラオスのビエンチャン、タイのバンコクもクメール王国に含まれていた。
しかし、13世紀になるとアンコール朝王室の内紛と、西に起こったタイに圧迫されたことで、次第に衰退していった。14世紀にはタイのアユタヤ朝の侵攻を受け、1431年に都アンコールを占領され、プノンペンに首都を遷した。そのため放棄されたアンコール=ワットなどのクメール文化の宝庫は深いジャングルに覆われて忘れ去られることになった。
日本町
16世紀~17世紀の初め、朱印船貿易が盛んだった時期に東南アジア各地に生まれた日本町は、カンボジアのプノンペンやピニャールにもみられた。また、アンコール=ワットには1632年に森本右近大夫という人が参詣したことが、その回廊への落書によって判っている。タイの支配
カンボジアにはプノンペンに王が存在するものの、一地方勢力と言った状況となり、東側のベトナムと西側のタイがその支配権をめぐる争いが続いた。タイのアユタヤ朝はビルマのコンバウン朝の攻撃を受けて滅亡したが、1768年、タークシン王がビルマ人を撃退し、独立を回復した。タークシン王は余勢を駆ってカンボジアに進出し、アンコール=ワットのあるシュムリアップなどを併合した。タイではこの時以来、アンコール=ワットはタイ領にあるという意識を持ち続けている。次のラタナコーシン朝を建てたチャクリ(ラーマ1世)もこの地の支配を続けたため、カンボジアは西はタイ、東はベトナムの支配権に入り、カンボジア王は両国に従属して朝貢するという形となった。
ベトナムによる侵略
10世紀にトンキン湾地方に建国されたベトナムは、インドシナ半島の東海岸沿いに勢力を南下させ、黎朝の17世紀にはフエを本拠とした地方政権阮氏がカンボジア領のメコンデルタ(コーチシナ)に進出し、ベトナム人の入植を進め、広南(クァンナム)国と称した。ベトナムはその後西山の乱で混乱したが、その中から台頭した阮福暎が、1802年までにベトナムの統一に成功し、コーチシナを併合、その地方の最大の都市サイゴン(現在のホー=チ=ミン市)はベトナム(越南国)領となった。この越南国阮朝がメコンデルタに支配を及ぼし、さらにカンボジアにも強い影響を及ぼすようになったが、カンボジアでは現在でもメコンデルタは自分たちの領土であったものをベトナムに奪われたという意識が強く、それが現代の両国関係が悪化した時に持ち上がってくる。カンボジア(2) フランス保護国化
1863年、カンボジアはフランスの保護国となり、87年からはフランス領インドシナ連邦の一つとなった。
カンボジアは17世紀以来、西のタイと東のベトナムからの圧力を受け、19世紀になると、事実上、その二国に隷属する状態となり、両国に朝貢するようになっていた。タイのラタナコーシン朝がイギリスの後押しでカンボジアへの支配力を強めてきた。ノロドム王は、タイとイギリスの進出からカンボジアを守るため、ベトナムに進出していたナポレオン3世のフランスと結ぶこととした。それは、フランスにカンボジア進出の口実を与え、1863年にフランス=カンボジア保護条約を締結してカンボジアを保護国化した。
それに対してタイは、カンボジアに対する宗主権を主張して反発したが、フランスはタイとの交渉の上、1867年にタイ=フランス条約を締結して、フランスのカンボジア保護権を認めさせ、そのかわりにカンボジア北西部のバッタンバン、シェムリアップの宗主権は認めた。これでタイはカンボジアの大半を失ったので領土の喪失と受け止められた。
フランス領インドシナ連邦
こうしてカンボジアは国家主権を制限され、フランスの保護国となった。さらに1884年、フランスはノロドム国王に迫って、フランスが司法・財政(租税、関税の収益を含め)を管理することを認めさせ、保護国化を完成させた。1887年10月17日にはフランス領インドシナ連邦が成立し、カンボジアもそれを構成する一部として、ハノイのフランス総督の統治を受けることとなった。フランス植民地当局はカンボジア人を「怠け者」とみなし、より「勤勉」なベトナム人を重用した。一方、農民には重税がかけられ、ますます勤労意欲を失い、借金地獄に陥る農民も多かった。
カンボジア(3) 独立と内戦
1953年、シハヌークがカンボジア王国の独立を宣言。ジュネーブ会議の結果、1954年のジュネーブ協定で国際的に独立が承認された。シハヌーク政権は次第に反米となり、1970年にクーデタで倒され、親米のロン=ノル政権となったが70年代に内戦が続き国土が荒廃した。
第二次世界大戦とインドシナ情勢
日本軍は1937年の盧溝橋事件から日中戦争に突入したが、蔣介石・国民党政府は重慶に逃れ、ベトナムを経由した援蔣ルートでの連合軍からの軍事物資を得て抵抗を続けたため、戦争は長期化した。日本は援蔣ルートの遮断を狙っていたところ、39年、第二次世界大戦が始まり、40年6月、ナチス=ドイツに対してフランスが降伏した。それを受けて日本は40年9月に北部仏印に進駐、一方タイは20世紀の初めフランスに奪われたカンボジアとラオスの領土回復を要求して、年末にはカンボジア西部に侵攻した。日本はフランスとタイの調停に乗り出し、41年5月に平和条約を締結、カンボジアは領土の4分の1をタイに譲渡した。日本軍のカンボジア進出
次いで41年7月、日本軍は南部仏印に進駐、ベトナム南部からカンボジアに部隊を展開、アンコール=ワット付近に飛行場を建設して、東南アジア進出の前線基地とした。同年12月、太平洋戦争開戦と同時に、日本軍はカンボジアなどからタイに侵攻した。タイへの領土割譲と日本軍の進駐は、カンボジア人の民族独立運動に火をつけ、フランスからの独立要求が強まると、フランスは41年にわずか19歳目前のシハヌークを国王に据え、操ろうとした。42年7月にプノンペンで初めての反仏デモ(日本軍の了解のもとで行われた)が起こったが、フランス治安部隊によって鎮圧された。
カンボジア王国の独立宣言
日本軍は太平洋戦争末期の1945年3月に国王シハヌークに独立を宣言させた。しかし、8月の日本の敗戦とともにフランスが戻ってきて植民地支配が再開された。「自由クメール」による反フランス闘争が起こり、フランスがベトナムでの戦い(インドシナ戦争)で苦戦する中、1953年11月9日にシハヌーク国王の名で独立を宣言した。インドシナ戦争後のジュネーヴ会議をへて、1954年7月21日に締結されたジュネーヴ休戦協定で、カンボジアの独立が国際的に承認された。シハヌークは55年に王位は父に譲り、より自由な皇太子の立場に立ち「シハヌーク殿下」と言われるようになった。実質的には国家元首として、自ら仏教社会主義共同体(サンクム)という独自の政党を組織した。ベトナム戦争とカンボジア
以後、シハヌークのもとで、しばらく安定した時代が続いたが、隣接するベトナムで南北の対立が激化し、1965年にベトナム戦争が始まると、シハヌークは北ベトナム寄りの反米姿勢をとり、北の支援ルートや南ベトナム解放戦線(ベトコン)の基地としてカンボジア領内を使うことを容認した。ロン=ノル政権と米軍の侵攻
1970年3月、外遊中のシハヌークは親米右派のロン=ノル将軍のクーデタで退けられ、カンボジアに戻れなくなり北京で亡命生活を強いられた。アメリカはただちにカンボジアに侵攻してベトコンの拠点を攻撃、カンボジアもベトナム戦争の戦場となるに及んだ。カンボジア内戦
ロン=ノル政権とそれを支えるアメリカ軍に対して、反政府解放勢力が激しい戦いに立ち上がり、カンボジア内戦に突入した。その間、首都プノンペンには次のような政権が交代したが、推移をまとめると次のようになる。- 1970~1975年 ロン=ノル政権:国名は「クメール共和国」 政体は共和国 特徴は親米右派政権。シハヌークは北京に亡命。共産勢力はポル=ポト派を形成、ジャングルで解放区を建設。アメリカは激しい空爆を行うが、抵抗を続ける。
- 1975~1979年 ポル=ポト政権:ポル=ポト派(クメール=ルージュは、1975年4月17日、首都プノンペンを制圧。1976年1月に国名を民主カンプチアに変更。農業を基本とした独自の共産制社会をめざす、親中国政権。都市民の強制的な農村移住、通貨の廃止、学校教育や科学技術の軽視など、極端な政策を強制し、反対する人々を強制収容所に送り、大量処刑したことなどが後に判明した。1979年1月、ベトナム軍のカンボジア侵攻、プノンペンからポル=ポト政権を追い出し、ベトナム軍に支援されたヘン=サムリン政権が成立。
- 1979~1989年 ヘン=サムリン政権:国名はカンボジア人民共和国、親ソ連・ベトナムの社会主義政権。反対勢力のシアヌーク派(王党派)、ポル=ポト派(共産勢力)、ソン=サン派(共和派)は三派連立政権をつくり、内戦が続く。
- 1989~1991年 ベトナム軍は撤退し、国号を「カンボジア人民共和国」から「カンボジア国」に変更。社会主義路線から転換する。1991年10月にパリでのカンボジア和平協定が成立。
- 1991~1993年 カンボジア和平協定による国連監視のもとでの最高国民評議会(SNC)による統治。93年の総選挙でシハヌーク支持派が第一党となり、憲法を改正し立憲君主政の「カンボジア王国」となり、シハヌークが国王に復位した。
カンボジア和平協定の成立
1989年、カンボジアからベトナム軍が撤退。ヘン=サムリン政権は国号を「カンボジア国」に変更すると、それを機にポル=ポト派の軍事攻勢が再燃したが、1991年のソ連の崩壊を受けて、冷戦が終結するという国際情勢の大きな変化の中、パリで続けられていたカンボジア和平に関する国際会議はようやく同1991年10月23日、和平協定の合意に達し、参加19ヵ国によって「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定」が調印された。それによって- 国連安全保障理事会は、文民と軍人による国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)を設置する。
- カンボジア最高国民評議会(SNC)を移行期間中のカンボジアを代表する唯一の合法機関と見なす。
カンボジア(4) カンボジア王国
1993年、国連監視の下で選挙が行われ、シハヌークが政権に復帰。憲法を改正して立憲君主国として自ら王位に復した。内戦は一応収束し、国土の復興、政治の安定などが進められている。
UNTACのもとで
1970年からのカンボジア内戦は、パリ和平会談の結果、1991年10月23日、カンボジア和平協定が成立してようやく終結した。その和平協定により、国連の国連平和維持活動(PKO)の一環として、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアの復興にあたることになった。カンボジア王国の成立
1993年、暫定統治機構管理下での総選挙が行われ、ポル=ポト派はボイコットしたが大きな混乱なくシハヌークの率いるフンシンペック党が第一党となり、5月に暫定政府が成立、新憲法が制定されて1993年9月に立憲君主国としてカンボジア王国が復活した。国王にはシハヌークが復位した。カンボジアの国旗は、かつてのポル=ポト政権下の「民主カンプチア」では共産主義を表す赤地の中に黄色でアンコール=ワットが描かれていた。ヘン=サムリン政権のもとで「カンボジア人民共和国」が1989年に「カンボジア国」に改められた時には、上半分が赤、下半分が青、中央に黄色いアンコール=ワット、と変更された。さらに、1993年の「カンボジア王国」となって、現在の上下を青地、中を赤地にして、中央にアンコール=ワットを白く浮かび上がらせる図柄になった。
フン=セン政権の成立
憲法の規定に基づいて実施された選挙の結果、ラナリット第一首相(フンシンペック党)とフン=セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人による連立政権が成立した。しかし、王党派の系統を引くラナリットと、旧ヘン=サムリン政権の首相だったフン=センの主導権争いが間もなく表面化した。1997年にはフンシンペック党と人民党の両派による内戦が起こったが、人民党が勝利し、フン=センが権力を獲得、ラナリットは国外に逃亡した。それ以後はフン=セン政権は安定した政権を維持し、1999年4月には東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟、さらに2004年には世界貿易機構(WTO)に加盟して、資本主義市場経済の導入に努め、東南アジア諸国の一角を占めている。なお2004年にはシアヌーク国王が引退し、シハモニ国王が即位した。また、この間、ポル=ポトもジャングルの中で死去し、他の指導者も相次いで政権側に投降、ポル=ポト派も消滅し、現在はポル=ポト政権下の大量虐殺の責任についての裁判が断続的に行われている。
参考 カンボジア・カンプチア・クメール
(引用)現地の人は、自らの国を「カンプチア」と呼び、そう発音する。「カンプー」という神様の「チア」=子孫というほどの意味だそうである。「カンプチア」を植民市支配したフランス人は、この国の名前を「カンボージュ」と発音して表記し、英語国民は、このフランス語なまりの「カンボージュ」から「カンボジア」という英語にしたようだ。基本的には、カンボジアもカンプチアも同じである。その後、1993年に立憲君主政となり、シハヌークが国王に返り咲いた。従って現在の国号は「カンボジア王国」である。シハヌーク国王は2004年に退位、ノロドム=シハムニ国王が即位した。
クメールは、国全体を表わすカンボジア=カンプチアより、多少狭い民族的な概念で、多数民族であるクメール民族とその言語・文化に関連して使われる。クメール語とか、クメール文化とかいうようにである。広い意味でのカンボジア国民=カンプチア国民は、多数民族であるクメール人だけではなく、中国系、ヴェトナム系、タイ系、チャム・イスラム系、山岳民族などの少数民族をふくめた全体の人々を指す。
なお各時代の正式国名は、・・・次のようになっている。
シハヌーク時代「カンボジア王国」Kingdom of Cambodia
ロン・ノル時代「クメール共和国」Khmer Republic
ポル・ポト時代「民主カンプチア」Democratic Kampuchea
ヘン・サムリン時代「カンプチア人民共和国」People's Republic of Kampuchea
1989年から「カンボジア国」State of Cambodia
ということで、英語にした時は、カンプチアと称した時代は、社会主義的な体制を感じさせるという。またロン・ノル時代が、狭い意味での「クメール民族主義」であることは、国名の選び方からもうかがえる。<熊岡路矢『カンボジア最前線』1993 岩波新書 p.46-45>
タイとの国境問題
カンボジアは北西側にタイと接しており、両国間の国境には未確定の部分かかなりあるため、現在でもたびたび国境紛争が起きている。その象徴的な出来事が、2008年に起こったプレアビヒア寺院事件(プレアヴィヒア、プレアビヘアとも表記)であった。プレアビヒア寺院事件 プレアビヒア寺院 Preah Vihear (プレア=ヴィヒア、「神聖な寺院」の意味)は、カンボジアのタイ国境に接したところにあるクメール王国時代のヒンドゥー教寺院でシヴァ神を祀り、アンコール=ワットよりも以前の9世紀に建造が始まった古い歴史を持つ貴重な遺産であった。かつてはポル=ポト政権がこの一帯を占拠していたので近づくことはできなかったが、1998年までに同派が壊滅したため、観光客にも公開されるようになり、2008年にカンボジアが世界遺産登録を申請、タイ政府も同意して登録された。ところが、この寺院はタイ語ではカオ・プラビーハン寺院(これも「神聖な寺院」の意味)と言われ、自国領内にあると意識されていたため猛反発が起き、カンボジアが封鎖した寺院にタイ人が侵入したことをきっかけに国境線は封鎖され両国軍が衝突する事態となった。
両国政府の折衝で軍事衝突は間もなく沈静化したが、プレアビヒア寺院をめぐる両国の火種はなかなか消えず、2010年にもタイのバンコクで政府の対応を批判し「カオ・プラビーハンを取り戻せ!」との標語を掲げた大規模なデモが行われた。カンボジア側では道路整備など、プレアビヒア寺院の観光開発に力を入れている。朝日新聞 2010年12月11日記事などによる → 世界遺産 カンボジア プレアビヒア寺院
フン=セン政権の開発主義
2008年の総選挙で人民党は123議席のうち90議席を獲得、フン=セン首相は安定した基盤の上で経済開発を推進、一人あたりの国民所得を2000年度の288ドルから2010年の830ドル、2015年には1140ドルへと15年で4倍に引き上げた。長期政権のもとで経済開発を進めるという開発独裁の特徴を有しており、カンボジアは30年遅れて登場した開発主義国家と言うことができる。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.165>