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黄土地帯

黄河流域の黄土が堆積した地帯。中国の華北一帯を占め、畑作農耕が始まって以来、中国文明形成の舞台となった。

 黄河流域には上流の中央アジアから偏西風で運ばれてくる砂が堆積した「黄土」地帯が広がっている。この黄土(こうど。おうどともいう)の細かな砂は風に乗って空高く舞い上がり黄塵万丈などどいわれ、時に日本にまで飛来する。この黄土地帯で北京原人などの旧石器時代人が活動していた。ついで地下水をくみ上げて灌漑を行い、雑穀を生産する農業が始まった。この中国の新石器時代を生み出した人類は、現生人類(ホモ=サピエンス)に属する周口店上洞人とされている。黄河流域の新石器文化として知られているのが中流の仰韶文化と下流の竜山文化である。

アンダーソンの『黄土地帯』

 J.G.アンダーソン(1874~1960)はスウェーデンの地質学・人類学者で、1914年に中国政府に招かれて北京にやってきた。成立間もない中華民国政府は、産業の近代化、近代科学の導入のために多くの学者や技術者を西欧から招いたが、アンダーソンもその一人だった。彼は中国の地質調査所の顧問として、中国各地を巡り鉱物資源の調査とその開発の指導に当たっていたが、地質調査の間に古い動植物の化石を集めたりしていた。たまたま1918年、北京西南の周口店という村に近い鶏骨山の粘土塊の中に古い鳥類の化石が含まれていることに興味をもち、調査したところ、多くの動物化石が見つかった。彼はズダンスキーという古生物学者のオーストリア人の協力で周口店の発掘を行った。ズダンスキーが化石を研究すると、その中に人間の小臼歯、大臼歯が一本ずつ見つかった。この報告を1926年、アンダーソンが発表すると世界的な反響を呼び、1928年からアメリカのロックフェラー財団の財政負担によって本格的調査が始まった。1929年には中国人学者の手によって完全な頭蓋骨も発見され、北京原人と言われるようになった。
 アンダーソンは北京原人の発見のきっかけを作ったことで一躍有名になったが、黄土地帯の一角から仰韶文化を発掘した。河南省新安県の仰韶村も化石が「竜骨」といわれて薬材として盛んに採取されていた場所だった。1921年に発掘調査したアンダーソンは、そこで新石器時代の遺跡を発掘し、あざやかな赤地に黒で文様を描いた、いわゆる彩文土器(彩陶)を多数発見した。この土器に強い興味をもったアンダーソンは西アジアの彩色土器との類似に注目して、その調査範囲を西の陝西省や甘粛省に広げていった。同じような多くの彩文土器を発見したアンダーソンは、彩文土器は西方から中国に伝わったものとの結論を出し、その説を発表した。それらの説は『黄土地帯』(Children of Yellow Earth 1934年)という書物にまとめられて発表され、世界の文明史、考古学研究に大きな影響を与えた。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』2000 講談社学術文庫 p.34-36,60>
 このようにアンダーソンは中国における人類の起源、文明の形成の研究に大きな功績を残したが、研究が進んだ現在では彩文土器の西方からの伝播説は否定され、中国独自に生まれ、むしろ西方に影響を与えたと考えられるようになっている。それでも彩文土器はその「発見者」アンダーソンに敬意を表してか、今も「アンダーソン土器」といわれている。