殷墟
中国の殷王朝の遺跡。黄河流域の河南省安陽市で、1950年以降の発掘で王の地下墓坑から多数の甲骨文字や青銅器が出土。甲骨文字の解読により、それまで実在が確認されていなかった殷王朝の存在が明らかになり、高度な青銅器文明を有していたことが明らかになった。殷墟は前14世紀の殷王朝最後の都であった。
中国河南省安陽市小屯村にある殷王朝の王の地下墓坑の遺跡。甲骨文字の彫られた獣骨の出土地として知られていた地を、1928年から発掘が開始された。1937年の日中戦争の開始で中断されたが、1950年に中華人民共和国の考古研究所が発掘を再開し、殷王朝の様々な遺跡、遺物が出土した。その特色は、甲骨文字の彫られた獣骨、青銅器類が多数出土したことと、巨大な地下墓坑で殉死者のみられる王墓の発見である。この遺跡の地は紀元前14世紀の殷王第十九代の盤庚から第三十代の最後の紂王まで、後期殷王朝の都であった。殷時代には商(または大邑商)と言われていた。
発掘時の墓坑の全体図は<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版 p.185>でみることができる。
殷墟出土の人骨群
・殷墟から大量の甲骨文字を刻んだ亀甲や獣骨、おびただしい数の青銅器などが出土したが、それらとともに人々を驚かせたのが大量の人骨の出土だった。しかもこの殷墟で発見された大量の人骨は、首が切られたものなど、傷つけられたものが多かった。中国では当初、これらの人骨は奴隷のものであるとの説が有力になり、殷代が奴隷制社会である証拠であるとされた。しかし、甲骨文字の研究が進んだ現在では、これらの人骨は下記のように祭礼の犠牲とされた人骨であるという見方が強くなっている。 → 中国の奴隷の項を参照
殷王墓の殉葬者 最下部にも墓坑があり、そこには石製の戈(カ。武器の一種)で武装し、一匹の犬をつれた兵士が埋められていた。中央の墓室の周りには台があり、そこにも棺に入れられた六人が埋葬されていた。これらは王を守るために殉葬されたものであろう。この王墓は古い時代に盗掘されていたので殉葬者の正確な数はわからない。さらに驚くのは、南の墓道には、59人もの首を斬り取られた遺骸が何層にも埋められていた。下層のものは20歳以下で、両手を背中でしばられ、その場で首を斬られている。切断された首はまとめて墓室の出口などに埋めてあった。首を斬られたこれらの人々は、王の霊に対して犠牲として供えられたものであったろう。そのほかこの王墓には王に仕えていたと思われる人々も埋められていた。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版 p.182-184 から要約>
殷墟の発掘
殷墟で発見された殷王の王墓と思われる巨大な地下墓坑は十数カ所に及ぶ。それらの王墓から、青銅器と甲骨文字とともに多数の人骨が見つかっている。その中の一つ、第一〇〇一号大墓をのぞいてみよう。墓の正室は長方形で南北18.9m、東西13.75m、東西に幅3.8mの耳室がある。深さは10.5m。四方に階段状の墓道がついている。王の棺は中央の板張りの槨室の中に収められている。発掘時の墓坑の全体図は<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版 p.185>でみることができる。
大量の人骨の出土
Source: Wikimedia Commons (CC0)
殷王墓の殉葬者 最下部にも墓坑があり、そこには石製の戈(カ。武器の一種)で武装し、一匹の犬をつれた兵士が埋められていた。中央の墓室の周りには台があり、そこにも棺に入れられた六人が埋葬されていた。これらは王を守るために殉葬されたものであろう。この王墓は古い時代に盗掘されていたので殉葬者の正確な数はわからない。さらに驚くのは、南の墓道には、59人もの首を斬り取られた遺骸が何層にも埋められていた。下層のものは20歳以下で、両手を背中でしばられ、その場で首を斬られている。切断された首はまとめて墓室の出口などに埋めてあった。首を斬られたこれらの人々は、王の霊に対して犠牲として供えられたものであったろう。そのほかこの王墓には王に仕えていたと思われる人々も埋められていた。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版 p.182-184 から要約>
殷墟の新発見
1999年、安陽の殷墟付近で大きな発見があった。すでに発掘が進んでいた宮殿宗廟区から川を挟んだ東北寄りの地区に、外郭城壁や宮城・宮殿跡などが発見され、殷墟よりも早い時期の都で有るとみられている。具体的には盤庚が遷都したところとする説が有力である。その後、武丁の時代に火事などの原因で廃棄され、目と鼻の先の殷墟に遷ったのではないかと考えらている。それまで殷墟は盤庚以後の王都と見られていたので、修正がせまられることとなった。<佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』2018 星海社新書 p.59>Episode 軍隊を率いた王妃
文化大革命が終わる1976年には、殷墟婦好墓が発見された。小屯村の西北の未盗掘の大型墓で、副葬品として大量の青銅器や玉器が出土した。その青銅器の銘文から婦好という女性の墓だと言うことがわかったが、この名は伝世文献は見えず、甲骨文の中に武丁の王妃の一人としてその名が見える女性である。甲骨文によって、彼女は王室の祭祀や庶務に従事するほか、王に命じられて人を集め、従軍していたことがわかった。このように殷王の妃が軍隊を率いて出征していることが殷墟出土の青銅器の甲骨文で判明したことは研究者を驚かせ、現在、殷墟宮殿宗廟区にその姿が大きな像として作られている。<佐藤信弥『同上書』 p.60>世界遺産 殷墟
北京の南約500㎞、安陽市の西北約3㎞にある殷墟は、後期殷(商)王朝の最後の首都として、紀元前1300年頃~紀元前1046年まで栄えた都市。文献や資料によって都だったと実証されている遺跡としては中国最古のもので、古代中国の文化や工芸とともに青銅器時代の繁栄を伝える。当時の王族の墳墓では唯一完全な形で残る妃の墓(婦好墓)はじめ、多くの皇族陵墓や宮殿が発掘されており、出土した大量の埋葬装飾品は当時の手工業のレベルの高さを示す。神託に用いた牛の肩甲骨や亀の腹甲などに神託の結果などを刻んだ甲骨文字は、世界最古の書記体系や古代中国の信仰、社会システムの発達を証明する貴重な遺物である。2006年、世界遺産に登録された。<ユネスコ 世界遺産センター HP> → World Heritage Convention -The List- Yin Xu Gallery殷墟の写真
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殷墟博物官の複元展示。紀元前1200年頃、殷王朝武丁王治世の傅好の墓。
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殷王墓に陪葬された戦車と馬。
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殷王墓に副葬された青銅製の酒器。
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おびただしい数の甲骨文を記した亀甲。