甲骨文字
中国で始まる漢字の起源となった文字。亀甲や獣骨に殷王が占いのために刻んだもので、卜辞ともいう。
甲骨文字が彫られた獣骨
Episode 甲骨文字の発見と解読
今から100数年前、清朝末の1899年に著名な学者であった王懿栄(おういえい)は、持病のマラリアの薬として北京の薬屋から「竜骨」を買い求めた。袋から取り出してみると、古そうな骨が出てきた。同席していた劉鉄雲がよく見ると、文字らしいものが彫られていた。二人はこれが金文よりも古い文字ではないかと考え、薬屋にどこから買い求めたか尋ねたところ、河南省の田舎で農民が掘り出していると聞いた。二人はたくさんの文字の刻まれた骨を集め、研究を始めた。ところが、1900年に義和団事件が起こり、王懿栄は外国軍隊が北京に入ったことを憤って、自殺してしまった。事変後、劉は王懿栄の集めた骨を譲り受け、1903年に「甲骨文字」と名付け、殷王朝の王が占いに使った卜辞であることを明らかにした。劉の友人の羅振玉(らしんぎょく)と王国維(おうこくい。いずれも著名な学者であった)は1911年、「竜骨」の出土する河南省安陽の小屯村の発掘を始めた。そこで得た甲骨文字を研究した王国維が、甲骨文に現れる王名は、『史記』に出てくる殷の歴代の王名と一致することを証明し、殷王朝の実在が明らかになった。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版>甲骨文と『史記』殷王名の一致
甲骨文の初期の解読における大発見は、文中に見える王の名が『史記』殷本紀などに記された殷王の世系と大まかに一致したという点であった。この問題は羅振玉や王国維によって早くから指摘されており、現在では『史記』の系譜に多少の訂正を加える形で殷王の世系が復元されている。このように、甲骨文はそこに記載された卜占の内容も含めて、殷代史を検討する上で最も重要な手掛かりである。<中国出土資料学会編『地下からの贈り物』2014 東方書店 p.11>甲骨を用いた卜占
甲骨を用いた卜占の素材は主に亀の腹甲と牛の肩甲骨で、卜兆が現れやすくするために裏面に円形の鑽(さん)や楕円形の鑿(さく)と呼ばれるくぼみを彫り込んで、くぼみの部分に熱した炭あるいは木の棒などをあてて表面に現れたひび割れを読み解く。占いを行う人を貞人といい、貞人が読み取った卜兆は絶対的な存在である上帝の意図とされ、判断が下される。それが終了した後、卜兆の部分を避けて卜占が行われた日付、内容、貞人の名などが甲骨文字で刻まれる。甲骨文は硬い素材に刻み込まれるので基本的には直線的な字体を呈しており、同時期の文字である金文とのあいだで書体上の相違が生じる。実際に文字を刻んだ人々は貞人とは別の専門的技能者であったと考えられる。<同上書 p.12-13>甲骨文字は「何で」書いたか
甲骨文字は、亀の甲羅や動物の骨に書かれた文字であることは教科書の説明ですぐ判るが、「何で」書いたのかは意外と説明がない。硬い素材に刻みを入れるのだから相当硬く尖ったものでなければならないが、考えてみれば殷や周の前半までは青銅器時代で鉄は使われていない。何で刻んだんだろうか。と思っていたら阿辻哲次さんの『漢字のいい話』にこんな一節があった。(引用)亀の甲羅と動物の骨は、どちらも非常に硬い素材である。だからそれに文字を刻むには、彫刻刀のように刃先の鋭利なナイフが必要だった。かつて、古代の金属加工の高水準がまだ理解されていなかったころには、ネズミなどの齧歯類の動物の鋭い歯を加工して作った道具で文字を刻んだのではないかと推測されたこともあった。しかし甲骨文字の出土地である「殷墟」の発掘で、精巧な細工をほどこした玉や銅で作られた彫刻刀が何本か発見された。亀の甲羅や動物の骨に文字を刻んだのは、おそらくこのような刀であっただろうと今では推測されている。
ただ実際に亀の甲や牛の骨に文字を刻む実験をおこなった中国人学者の経験を伺ったところでは、甲羅や骨に直接文字を刻むのでは硬すぎで微細な線は刻めないとのことで、最初に甲羅や骨を煮て柔らかくしてから文字を刻みつけたのではないかという。模擬実験で、亀の甲羅を熱湯の中で数時間煮沸すると、かなり軟らかくなったとの由である。
ところでいっぽう、甲骨文字の中には「筆」の最初の字形である「聿」という字があって、それは墨液を含ませたか、あるいは乾いて毛先が広がった筆を手に持って、まさに文字を書こうとしているさまをかたどってた象形文字である。甲骨文字の中にこのような字形の文字があるということは、とりもなおさずその時代にすでにすでに現在のような筆があって、文字を表記するために使われていたことをものがたる。そして現実に、甲骨文字の中には、骨や甲羅などの表面に墨や朱で書かれたものも発見されている。つまり甲骨文字にはナイフで刻んだものと、墨や朱で直接書かれたものの二種類があるわけだ。<阿辻哲次『漢字のいい話』2020 新潮文庫 p.259>