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墨家

墨子を祖とする諸子百家の一つ。戦国時代の諸侯に対し絶対的な平和を説く。一種の宗教団体として活動した。

 中国の戦国時代の諸子百家のひとつ。墨子の教えを奉じる人々の一派。彼らは師の兼愛説などをかたくなに守ったので、「墨守」と言う言葉が生まれた。

墨子を教祖とする宗教団体

 墨子は非戦論者・平和論者としてあらわれたが、なおも血族関係の意識が強く残る当時の中国の社会においては、自由主義者・合理主義者という点だけでは改革は難しかった。そこで墨子は、合理主義者としての一面の他に、宗教者としての一面を持ち、神を強く崇拝し、その権威によって乱世を治めるために、法律という形で人民に教え、社会の秩序を維持しなければならないと考えた。そこでかれは、みずから教祖となって弟子たちを統率し、厳格な団体的な訓練を施し、一つの宗教的な団体を形成した。この団体は強固で、かれの死後も絶えずその後継者を教祖として選び、その教祖の言葉を至上命令として絶対的に服従した。「墨守」はそのような師の教えを忠実に守る墨子学派の行動を諷刺した言葉だった。

墨家思想の盛衰

 墨子の生前には「墨儒」という言葉もあったように、墨子は儒家の思想家とも交わり、論争はするけれども対立する関係ではなかったが、墨子の死後、宗教団体としてあり続けるうちに、次第に儒教とは相容れない、敵対する思想団体になっていき、戦国中期には墨家思想と儒家思想は対立するに大思想潮流となった。
 しかし、戦国時代が戦国の七雄の時代を経て秦によって統一され、さらに漢王朝が成立すると、思想の主流は法家儒学・儒教などが占めるようになり、ややもすれば特異な異端的思想とされた墨家は衰えてしまった。中国では長い間、墨家の存在は忘れ去られていたが、1949年の中華人民共和国が成立すると、その新しい社会主義国家建設のなかで、墨子の合理主義、科学技術の重視などの思想は唯物論と認識されて復活し、盛んに研究されるようになった。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫 p.464>  
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貝塚茂樹・伊藤道治
『古代中国』
講談社学術文庫