印刷 | 通常画面に戻る |

諸子百家

中国の春秋・戦国時代の多くの思想家、学者集団。儒家、道家、法家などのほか、多数の学者が輩出した。

 春秋・戦国時代前6~前3世紀に活動した、思想家、学者の集団の総称。「子」は先生、「百」は多いという意味。儒家墨家農家道家陰陽家法家名家縦横家、雑家、小説家の十家に分けられる。他に、兵家をあげることもある。
 春秋から戦国時代ににかけて、旧来の社会秩序が崩壊し、新しい国家理念や道徳、世界観が求められるようになった。また互いに対立し、それぞれ富国強兵を目指す各国の諸侯は、競ってそのような思想家を求め、身分や血統にとらわれずに人材を登用しようした。そのような状況を背景に、前4世紀に最も活動が活発になり、各国を遊説して自己の説を主張し、自由に議論しあう「百家争鳴」の状況が生まれた。なお、諸子百家の分類は、その当時に存在したわけではなく、前漢末の劉向が戦国時代の文献(古文)を復元研究して分類し名付けたものである。

諸子百家の背景 戦国時代

(引用)戦国時代において中国歴史に比を見ないような学問・思想・言論の自由が実現しえたのはなぜであろうか。まず政治史的には韓・魏・趙の三氏が知伯を亡ぼし、七国の対立の形勢が始まった前453年から、秦の始皇帝が六国を統一した前220年まで233年の長期間にわたって、中国の本部がたがいに国力の比敵する七教国に分かれ、対立抗争したことは、中国歴史上では他にその例を見出せない。五胡十六国の対立は西暦304年から493年まで189年間つづいたけれども、興っては亡びた各国の政治は不安定なまま終始した。戦国の七国が田斉の平和革命を中にはさみながらそれぞれ安定した列国の分立とは同日の談ではんかった。
 あいたがいに張り合う七国は、少しでも他国に政治・経済・外交・軍事で優越するため、国籍と出身を問わず全国から人材を募集し、その指導のもとに大胆に制度を改革し、政策を実行し、戦略を推進した。この対立する強国により人材の争奪は猛烈をきわめ、この人材獲得に失敗すると、いかなる強国もたちまちの劣者の位置に落伍する恐れがあった。<貝塚茂樹『諸子百家』1961 岩波新書 p.78-79>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

貝塚茂樹
『諸子百家
―中国古代の思想家たち』
1961 岩波新書

湯浅邦宏
『諸子百家―
儒家・墨家・道家・法家・兵家』
2009 中公新書