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墨子

諸子百家の一つ、墨家の祖となった思想家。兼愛説にもとづき、諸侯に戦争の否定、衣食住の節約などを説いた。戦国中期には宗教的団体を結成、儒教に対抗する勢力となった。

 諸子百家の一つ、墨家の祖となった人物。前480年ごろ、孔子と同じ国に生まれた言う。孔子の仁の思想をさらにすすめ、利己主義や家族愛、郷土愛、国家愛などの差別的な愛を捨てて、普遍的な愛を説いた。それを兼愛説という。また戦争を社会の財貨を破壊するものとして否定し(非攻)、賢者を尊び(尚賢)、政治に登用すること、衣食住での徹底した節約(節用)などを説いた。戦国時代にの争乱を否定する彼の思想は、一時たいへん流行し、多くの弟子が出現し、一種の宗教団体のようになったという。

墨子のひととなり

 墨子は名を翟(てき)といったが、その姓や親の職業などは不明である。墨子の墨が本来の姓であったかどうかもわからない。ある説によると、墨子は手工業者の奴隷出身であるという。すなわち、当時の手工業者のなかには奴隷出身の者が多かったが、その逃亡防止のため、奴隷はみな入墨をされていて、他人から墨者といわれ、それが姓になったのだという説がある。とにかく、墨子は手工業者に対してひじょうに同情をもっていたので、かれ自身その出身者かもしれない、という推測を生んだのである。
(引用)墨子は社会に奉仕するために、頭は罪人のように丸刈りにし、冠もかぶらず、素足であるいていたと伝えられるくらいで、ひじょうに質素倹約を守り、その生活ぶりは一般庶民とすこしも変わらなかった。かれは技術を重んじ、凧を飛ばしたり、大きな車をつくったりした自然科学者でもあった。とくに、戦争のない平和な時代を招来するために、武器を開発し、それを利用して小国を応援し、戦争をしかける大国に対抗した、というようなたぐいのことが、いろいろといわえている。そして、かれがすぐれた技術者であった点からも、身分的に賎視されていた手工業者の家に生まれたのであろうと推測されているのである。<貝塚茂樹・伊藤道治『同上書』p.461>

兼愛説と非攻

 墨子は魯国に生まれた育ったと考えられるので、孔子の儒教から多くのものを学んだであろうが、孔子が下級武士のでであったのに対し、墨子は一般庶民、あるいは手工業者の出身であったことから、しだいに独自の道をたどるようになった。 ・儒教は仁を重んじ、仁の理念によって国を治めなければならないと説いたにもかからず、春秋時代の諸侯は互いに争い強者が弱者を併呑するという事態が続いた。このような社会悪が何故起こるか考えた墨子は、人々が互いに自分の利をはかる利己主義を捨てて、博く愛する「兼愛」をこころがける博愛(汎愛)主義をとるべきだと説いた。孔子の仁の思想は、当時の宗族制の下で本家が分家を支配するという社会環境に制約されていたといえるが、墨子は血族的制約を一気に乗り越えて、人類愛をもとにした国民国家を想定していたと考えることができる。そして力による解決である「戦争」を否定して、非戦、非攻という平和主義に到達した。

墨家の集団

 墨子には、非戦論者・平和論者としての面の他に、宗教者としての一面があり、神を信じ、その意志に基づいて乱世を治める必要を強く意識していた。彼はみずから教祖となって弟子たちを統率し、一つの宗教的団体をつくって厳格な訓練を施した。この団体は強固で、墨子の死後もその後継者を教祖として選び、その教祖の言葉を固く守った。墨子学派は教祖の定めた規約を厳格に守ることから「墨守」ということばが生まれた。
 墨子の存命中は、儒教と決定的に対立することはなかったが、墨子の死後は次第に儒教との敵対関係が明らかになり、戦国時代には対立する二大思想潮流となった。

墨子の反文化主義

 孔子の説いた儒教は、理想的な政治は礼楽による統治であると説いたので、伝統的な文化を守る一種の文化主義であったが、墨子はそれを貴族の思想に過ぎないとして否定し、伝統的文化に対しては正面から挑戦して破壊し去ろうとした。その点でも異端的であった。戦国時代の中期には儒教と対抗する思想として幅広い影響力をもっていたが、戦国が七雄の対立の時代から全国統一へと向かう間に、旧来の儒教思想が復活し、墨子の思想は没落してしまい、秦漢時代にはほとんど忘れられた状態となった。
 墨子の思想が復権したのは、1949年の中華人民共和国の成立以後だった。毛沢東らは、墨子が手工業者出身で合理的な科学技術を重視した点を評価し、その思想が唯物論的な面があるととらえたのだった。こうして申請中国になって墨子の研究が進み、その思想が再認識されるに至った。<以上、主に貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫 p.460-466 による>
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貝塚茂樹・伊藤道治
『古代中国』
講談社学術文庫