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商鞅

戦国時代の秦に仕え、法治国家、富国強兵をめざした改革を行った政治家。その思想は法家と共通している。

 戦国時代の前4世紀の中頃、衛という小国に生まれ、戦国の七雄の一つの魏に仕えて行政能力を発揮、ついでに亡命し孝公に仕え、前359年、「商鞅の変法」といわれる改革を実施した。そのねらいは徹底した富国強兵策を、法の強制によって推進しようとするものであり、それに成功した秦は戦国末期に国力を増強し、他の諸国の中で最も有力な国となる基盤をつくった。その理念は、諸子百家の中の法家の思想と共通している。彼自身は保守的な貴族の反発を受け、孝公の死後、国外に逃亡しようとして失敗し殺される。

商鞅の変法

 商鞅が秦の孝公のもとで行った改革には次のようなものが挙げられる。
什伍の制 従来の血縁的な組織に代えて5人を伍、十家を什とする地縁的な隣保組織をつくり、連帯責任を負わせた。
・同時に一家に二人以上の男子がいれば必ず分家しなければならないとして自作農の増加をはかった。
・血統に関わりなく実績で爵位を与えるという実力主義の爵位制度を始めた。

その意義

 商鞅は第二次の改革で、度量衡の統一や兵農一致の軍事体制の設置などを試みた。このような改革は、貴族層には受け入れられなかったが、従来の血縁社会の原理を否定し法によって統治される中央集権的な国家に脱皮させるきっかけとなり、後の秦王政(始皇帝)による全国統一の原型となった。

Episode 商鞅、法令の害毒を嘆く

 商鞅の変法が実施されたときの話。「改革の法令を全国に発布するに先立って、都の市場の南門に三丈の高さの木が立てられ、そのそばに、この木を北門まで運んだ者には十金の賞金を与える、との立札が掲げられた。人びとはいぶかしく思うだけで、なんのことかさっぱりわけが分からず、だれも運ぼうとする者はいない。やがて、「十金」は「五十金」と書き改められた。一人の男が現れ、北門まで運んだところ、ほんとうに五十金が与えられた。そのうえでただちに法令が全国に発布された。政府はうそをつきません、国民はとっぴな法令と思うかもしれないが政府は本気で施行いたします、と言うわけである。」商鞅はまた、秦王の太子が法令に違反すると「法令が徹底しないのは、上に立つ者が犯すからだ」と立腹し、さすがに太子を罰することが出来なかったので、その補導係を死刑にした。こうして法令の力によって秦は国が治まった。しかし時移り、孝公が亡くなりその太子が即位して恵王となると、商鞅は反逆罪に問われた。商鞅は都から逃亡し、関所の宿で一宿を請うたところ、宿の主人は「商鞅様のおきてでは、通行手形を所持していない人間を泊めると罰せられるのでな」と断られる。「商鞅は天を仰いで慨嘆した。ああ、法令の害毒はなんとここまでひどいのか。やがて捕らえられた商鞅は車裂(くるまざき)の刑を受けた。」<吉川忠夫『秦の始皇帝』1986 講談社学術文庫 p.69-71>