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始皇帝

前221年に秦王政として中国統一を達成。最初の皇帝として始皇帝の諡号を贈られた。支配地全土に郡県制を施行したほか、文字・貨幣・度量衡などの統一を行い、後の中国の皇帝政治の基礎を築いたが、その没後に農民反乱が起こり、秦王朝はわずか15年で崩壊した。

始皇帝

秦の始皇帝
中国歴代皇帝トランプより

 の王名としては嬴政(えいせい)またはという。前247年、13歳で秦王となる。戦国時代の秦は、渭水盆地を支配する諸侯にすぎなかったが、潅漑(鄭国渠の開通など)を推進して国力を充実させていた。相国(総理大臣に当たる、本来は相邦)の呂不韋の陰謀事件を乗り切った政は、軍備を増強するとともに、法家の思想家李斯を登用して法治国家の整備を行い、独裁権力を打ち立てた。成長する過程で、母太后に取り入った男が起こした嫪毐(ろうあい)の乱、実力者呂不韋の離反、さらに燕王が放った刺客の荊軻による暗殺未遂事件などの危機を乗り切って、権力を強め、前230年頃から他の6国の攻略に乗り出し、前221年までに最後のを滅ぼし、ほぼ現在の中国の国土に匹敵する地域に統一権力としての王朝を樹立した。

始皇帝の統一政策

 初めて広大な中国の国土を統一的に支配した秦の成立は、新たに創り出されたものであり、後の中国の各王朝に継承されて皇帝政治の基礎となる、画期的なものであった。その政策はの多くはブレーンであった李斯によって考案された。1911年の辛亥革命が終わるまで、実に、2000年以上存続することになる皇帝政治の始まりとなった。
皇帝の称号 秦王政は、秦帝国の建設することをめざし、あらたに世襲の帝位である「皇帝」の称号をみずから考案した。同時に、従来の諡(おくりな、死後に称号を贈ること)の制度を止め、みずからは始皇帝と称し、後継者は二世皇帝、三世皇帝と称することをあらかじめ定めた。ただし、彼が存命中は皇帝とだけ呼ばれ、死後に始皇帝と言われた。また、李斯ら学者の進言により、皇帝の命令を「制」、布告を「詔」、皇帝の自称を「朕」などの皇帝専用語を用いることとした。
郡県制の採用 まず周以来の封建制を廃止し、郡県制を採用し、中央集権体制の確立を図った。全国を36の郡にわけ、その中をそれぞれ県を置いた。現在の日本は県の中に郡が含まれるが、郡県制では郡が上位の単位であった。また、封建制では地方の国に王が置かれたが、秦では国号と王号は廃止された。
さまざまな統一事業 全土を統一的に支配するのに必要であったのが、貨幣・度量衡・文字の統一であった。貨幣は、戦国の各国が発行した青銅貨幣は布貨、刀貨、円貨など流通するものが違っていたので半両銭という統一通貨を発行した。また度量衡ではまず長さ(度)の単位の一歩を6尺と定め、量をはかる「ます」(秦量)と重さ(衡)をはかる「はかり」(秦権)の標準器を製造して全国に分配した。文字では秦で使われていた大篆をもとに簡略体を作り、それを小篆として、全国共通の統一字体と定めた。また、「車軌」を統一して、馬車が同じ轍で走れるようにした(具体的な車幅などは判っていないが、現代でいえば鉄道車両のゲージを統一してJRも私鉄も同じ電車が走れるようにすること)。
全国巡幸 秦は他の六国を滅ぼし、中国を統一したが、その統一戦争が一段落してからは、始皇帝は盛んに地方巡行を行った。三皇五帝などにかかわる各地の著名な遺跡を訪ねて顕彰し、神々に祈った。前219年には皇帝となったしるしとして、泰山で天地を祀る封禅の儀式を行っている。始皇帝の全国巡幸は、前210年に死去するまでに、前後5回にわたって行われた。
対外戦争と土木事業 中華帝国を統一支配する国家としての、引き締め策として、新たな外敵が想定された。それは北方の匈奴と南方の南越だった。前215年には動きが活発になった匈奴を討つために、将軍蒙恬に50万の軍を指揮させて派遣した。匈奴を後退させた蒙恬は、その南下に備えて万里の長城を建設した(戦国時代の各国が築いたのをつなげるとともに、新たな長城も建設した)。また翌前214年には軍隊30万を南越に派遣して、中国南部に南海郡(現在の広東)、桂林郡(広西地方)と象郡(ベトナム北部)の3郡を置き、領土を拡大した。北方の匈奴に備えて、オルドス地方を南北に縦断する直道や、南越出兵のために運河を建設している。
焚書・坑儒 前213年、法家思想を標榜する李斯の建言により、実用書を除く儒家などの書物を禁書として廃棄する焚書を行い、さらに翌年は始皇帝の政治に批判的な学者を生き埋めにするという焚書・坑儒を行った。これは匈奴・南越との戦争を遂行する上での戦時思想統制という意味合いが強かった。
首都・宮殿・陵墓の造営 前221年、皇帝政治を開始した始皇帝は、首都咸陽に全国の富豪12万戸を移住させ、咸陽を中心に全国に通じる道路を建設した。さらに渭水の南岸に咸陽城を拡張し、宮殿や霊廟を建造した。また、すでに秦王として即位した前247年に、自分の墳墓である驪山陵の建造を開始していた。前212年には新たな宮殿として阿房宮を造営した。

Episode 陰謀渦巻く始皇帝の周辺

 始皇帝の周辺には尋常ではない陰謀が渦巻いていた。まず、彼が幼少で秦王となったとき、実権を握っていた相国(総理大臣)は呂不韋という人物だったが、彼はもとは商人の出で先代の秦王荘襄王に取り入り、自分の愛人を献上してのし上がり、食客三千人という権勢を誇っていた(彼が食客たちに書かせた『呂氏春秋』という書物は今に伝わっている)。王子政、つまり後の始皇帝は、荘襄王の子となっているが実は呂不韋とその愛人の子であったという。その愛人は今や前王の后となって権勢をふるおうとし、政に対してクーデターを起こしたが、機先を制した政に捕らえられてしまった。その黒幕であると疑われて捕らえられた呂不韋は配流の途中で自殺する。<西島定生『秦漢帝国』講談社学術文庫版など>

参考 人間・始皇帝 その実像

 始皇帝については、従来は百年以上後の司馬遷の『史記』の記事によって、その人物像や施策を知るだけであったが、1970年代に突如として知られることになった始皇帝の兵馬俑と、睡虎地秦代墓から大量に始皇帝時代の直接資料である竹簡に書かれた文書が出土したことで、大幅にその実像が判明し、教科書も書き換えなければならない事態となっている。現在の始皇帝研究の先端を行く、鶴間和幸氏の『人間・始皇帝』が参考になる。
『史記』でつくられた始皇帝像 『史記』では始皇帝の本名は趙政と記されているが、睡虎地秦代墓から出土した『趙正書』には「趙正」とある。しかも驚くべき事に、彼が「始皇帝」となったことには触れられておらず、「秦王」として生涯を終えたとされている。また『史記』では始皇帝の死後、趙高と李斯が陰謀によって長男扶蘇に罪を着せ、弟の胡亥を皇帝にしたとしているが、『趙正書』では、始皇帝のもとで胡亥が正統な後継者であること事が決められたとある。 鶴間氏は考証を進め、始皇帝の名前は「趙正」が正しかったと断定している。さらに、司馬遷が『史記』を書いたときも、これらの材料は知っていたが、取り上げなかったのであろうと述べている。始皇帝は実は呂不韋の実子であったとか、二世皇帝の継承は陰謀であったとかという情報の方が都合がよかったと考えられるのは李斯であり、始皇帝が焚書坑儒を行った暴君であったという評価は漢代の儒家にとって都合のよい情報であった。司馬遷は、それと異なる情報も知っていたであろうが、敢えてそれを採用しなかった。<鶴間和幸『人間・始皇帝』2015 岩波新書>

陵墓の造営と兵馬俑

 彼は不老不死を望み、東方に仙薬を求めたが得られず、前210年に死去した。その死後は秦の支配力は急速に衰える。彼は秦王に即位するとすぐに陵墓として驪山陵を造営していた(当時の皇帝は一般的にそうした)が、この陵墓は秦滅亡時に項羽の軍隊によって荒らされ、今は広大な墳丘が空しく残っているだけである。ところが、1974年、偶然に陵墓から東に1.5km離れた畑の中から大量の兵馬俑が出土し、世界を驚かせた。それは記録でも伝承でも知られていなかった始皇帝陵を守るための兵士や軍馬を模した像を埋めた施設であることが判った。始皇帝の権力の強大さを示す、20世紀最大の考古学上の発見であった。

Episode 数になりたかった皇帝

 後の始皇帝、若き日の秦王政に影響を与えた人に韓非がいる。韓非は韓国の皇子であったが、吃音であったので弁論でははく、もっぱら著述で諸国の君主に自説を主張した。韓非は、君主たるものが臣下を使うときは、自らの意図をあからさまにしてはいけない、と説く。君主として露骨にリーダーシップを取ると、臣下はそれにおもねて君主のよろこぶことをしようとしてしまう。そのような“へつらい”や“ごまかし”を政治から一掃するためには「法を重んじよ」と教えた。定められた法律を厳格に運用して、けして私情を交えぬこと。それに従って適確に賞罰を行うこと。韓非は戦国の世を生き抜くために力強い国をつくるためにはそれが一番の方法なのだと考えた。
 韓非の思想に共鳴した始皇帝は、自らの私情を抹殺して“法”と一体化することで史上初の中華帝国を築き上げた。そのとき、その地位にふさわしい称号はそれまでに無いものでなければならないから「皇帝」とし、後の人から与えられるような「諱」は拒否しなければならない。
(引用)そう考えた彼は、自分で自分を“評価”しようとする。そうして私情を捨て去ってしまった身にはそれは不可能だ、と気づいただろう。自らお気に入りの呼び名を選ぶことは、自分で自分に迎合することにほかならないからだ。その瞬間、彼に残されたのは何だったか。それは、この帝国を始めたのは自分だ、という“事実”ではなかったか。最初であること、一番であること。それがどのような意味をもつかはともかくとして、彼が認めることができたのは、それのみではなかったか。かくして彼は、「始皇帝」となった。そして、おのれの後継者たちにも、“数”となることを命じたのである。<円満字二郎『数になりたかった皇帝』2010 岩波書店 p.114>
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書籍案内

西嶋定生
『秦漢帝国』
1997(初刊1973) 講談社学術文庫

吉川忠夫
『秦の始皇帝』
2002(初刊1986) 講談社学術文庫

鶴間和幸
『秦の始皇帝―伝説と史実のはざま』
2001 吉川弘文館

鶴間和幸
『人間・始皇帝』
2015 岩波新書

新たに発見された同時代史料である「睡虎地秦代墓」出土の竹簡などを駆使して、従来の『史記』で伝えられた始皇帝像に新たな光を当てる好著。


円満字二郎
『数になりたかった皇帝』
2010 岩波書店

著者は高校国語教科書や漢和辞典の編集に携わった人。この書は漢字と数にまつわる話をいろいとと紹介している。