印刷 | 通常画面に戻る |

韓非/韓非子

諸子百家の法家の思想家。戦国時代末期の韓の王族に生まれ、殉死に学んで法をもとにした国家統治のあり方を説いた。秦に使節として派遣され、秦王政(後の始皇帝)にも自説を説いたが、同門の李斯に妬まれj自殺した。その思想は『韓非子』としてまとめられた。

 前3世紀、戦国時代末期の法家の思想家。荀子の性悪説と、国家統治論を発展させ、国家を統治するには礼よりも法の力が必要であると説いた。そして魏の李悝(りかい)や、秦の商鞅などの実践家の事績を総合して、統一国家の理論としての法家の思想を大成した。その著作が『韓非子』。
 の公子として、秦に使者となって派遣され、秦王政(後の始皇帝)にもその説を説き、その信頼を受けたが、同じく政に仕える同門の李斯の計略によって捕らえられ、自殺した。
(引用)韓非子は韓の国の王子であったが、生まれつきの吃音で、(諸子百家の)諸思想家のように雄弁によって君主や大臣などを説得することが不可能であった。だから、むしろ著述によって自説を世に広めようとした。かれは荀子の門弟であったが、荀子から儒教思想を受けるとともに、韓国に盛んであった法家思想をも学んだ。そして魏の李悝に始まり秦の商鞅などに継承されていく法家、それから老子・荘子の道家、そして墨家、名家などの論理学、そういうものをすべて総合する大思想家となった。<貝塚茂樹他『古代中国』講談社学術文庫 p.498>

参考 韓非が始皇帝に教えたこと

 韓非の言行録である『韓非子』主導編に次のような一節がある。
「君、其の欲する所を見(あらわ)す無かれ。君、其の欲する所を見さば、臣、将(まさ)に自(みずか)ら雕琢(ちょうたく)せん。君、其の意を見す無かれ。君、其の意を見さば、臣、将に自ら表異せん。」
この文を円満字(えんまんじ)二郎氏は次のように読んでいる。
(引用)――君主たるもの、自分のやりたいことを臣下にさとられてはならぬ。さとられてしまえば、臣下はきっと、それに合わせて自分を取り繕うとするからだ。君主たるもの、自分の意見を知られてはならぬ。知られてしまえば、臣下はきっと、それに合わせて自分を売り込もうとするからだ。<円満字二郎『数になりたかった皇帝』2010 岩波書店 p.112>
 為政者は“リーダーシップ”など発揮するな。そのかわり、法を重んじよ、と韓非は主張する。定められた法律を厳格に運用し、けっして私情を交えぬこと。そうして、それに従って適確に賞罰を与えること。そうすることによって、下に位する者たちの“へつらい”や“ごまかし”の道は封じられる。この戦国の世を生き抜く力強い国をつくるには、それが一番の方法何のだ、と韓非は若き秦王政、つまり後の始皇帝に教えたのだ。
 見事に“忖度”が横行している現在の日本の政治権力と官僚の関係を言い当てているようだ。(2019.3.21記)

韓非子のことば

  • 守株しゅしゅ 「宋人に田を耕す者あり。田中に株あり。兎の走りて株に触れて死す。因りてそのすきてて株を守り、復た兎を得んことをこいねがう。兎、また得る可からずして、身は宋国の笑いと為れり。いま先王の政をもって、当世の民を治めんと欲する派、皆な守株の類なり。」<『韓非子』五蠹ごと
    • (春秋戦国時代の)宋の人が田を耕していると、兎が切り株にあたって死んだ。思わぬ獲物を得たその人は、田を耕すのをやめ、切り株前ですっと兎を待ち続け、笑いものになった。このように政治も昔うまくいったことを今も同じやり方でうまくいくとは限りない。昔のやり方に固執するのは愚かなことだ。<富谷至『四字熟語の中国史』2012 岩波新書 p.55>
      守株または「守株待兎たいと」は、以前の成功に固執し、同じ成功を期待するだけで何もしないでいること、を意味する言葉として使われている。
  • 矛盾 「楚人にたてほこひさぐ(売っている)者あり。之を誉めて(宣伝して)曰く。吾が楯の堅きこと、能くくこと莫し。又た其の矛を誉めて曰く。吾が矛のするどきこと、物においてか陥かざること無きなり。或るもの曰く。子の矛をもって子の楯を陥けば、如何と。其の人、応える能わざる也。夫の陥く可からざること無きの矛、世を同じくして立つ可からざるなり。」
    • 理想的な帝位継承とされる尭から舜への禅譲には、理想的君主であった尭が、政治が乱れたために舜に帝位を譲ったという矛盾がある。聖人が良い政治をしていれば、不祥事など生じないはず。舜に代わったということは尭に失政があったからなのではないか。孔子の理想論にはこのようにつじつまのあわないこと、論理的不整合、つまり矛盾がある。こう指摘する韓非子は、政治は理想論ではない。現実問題を解決することが政治だと言っているのであろう。<富谷至『同上書』 p.56-58>