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小篆/始皇帝の文字統一

中国の秦の始皇帝の時に定められた漢字の統一書体。李斯が定めた書体で統一し、漢字の基本となった。

小篆

秦の漢字統一 馬の例
『中国中学校の歴史教科書』p.150

 しょうてん。秦の始皇帝が、宰相李斯に命じて定めたという、漢字の統一書体。その簡略体が隷書で、漢代に用いられるようになり、さらに楷書体、行書体がつくられ、現在の漢字になる。

戦国時代の漢字の変化

 殷の甲骨文字や西周の金文といった段階の漢字は、一部の支配者の専有物であり、王室から各地の諸侯に向けて使われ、諸侯はそれをまねていたに過ぎなかった。しかし、戦国時代に群雄割拠の情勢のもとで漢字は地域ごとに独自の発達をして、地方色が強くなった。さらに孔子、墨子を初めとする諸子百家が春秋時代から戦国時代にかけて活動し、盛んに書物を著述するようになると、漢字は象形のレベルを超えて人間の精神世界を文字化して表現する手段とされるようになった。また戦国時代の秦の変法で法律による統治のシステムが整えられるようになると、文字は人間の社会生活と密接に結びつくこととなった。

秦の漢字統一の本質

 戦国各地で文字が字体だけでなく、使われ方が異なっていった。文字の形の違いでは、例えば「馬」の字は右図に見るように国ごとに違っていた。しかし最近資料が増えたことで判ってきたことは、馬のような違いは例外的で、字体にはそれほど大きな違いがなかったことがわかってきた。むしろ違いが大きいのは「漢字の使い方」で、例えば、秦で使う「重」(重い)は楚では「童」を使い、「有」は「又」が使われた。秦で行われた文字の統一は、その字体を統一するだけではなかった。
(引用)字形は言うに及ばず、言葉と漢字との配当関係を秦に合わせ、さらに語彙そのものや文章の書き方をも秦風にしたのが文字統一の本質であった。戦国時代には、各国で法令と行政文書による統治のシステムが整えられつつあった。文字が不統一であると行政に差し障りが生じる。かりに秦以外の国が天下を取っていたとしても、同様の政策が施行されていたと思われる。秦は新たな領土を加える度に、秦の文字の使用を強制していたのであり、統一後に全国規模で行われた文字統一は、いわばその総仕上げであった。<中国出土資料学会編『地下からの贈り物』2014 東方書店 p.125-126 大西克也「文字はこう変わった」以下同じ>

秦の書体を継承した漢字

 秦は短命に終わったが、「漢承秦制」と言われるように、漢は制度としての秦の文字表記体系を引き継いだ。このことが漢字の運命を決定づけた。後世「漢字」と呼ばれるようになったが、秦の文字としての漢字が伝承されたのである。秦の文字体系は厳格だった(例えば、大小の小と多少の少を書き分けるなど)。

Episode 馬の足を三本

 漢が秦の文字を継承した以上、政策としての文字統一を推進する必要があった。書記官には書類をきちんとした文字遣いで書くことが求められ、誤字があれば罰金が科せられた。朝廷に差し出す上奏文に誤字があれば刑罰に問われた。前漢の武帝の時代に九卿(高官)の一つである郎中令を務めた石建という人は、上奏文に書いた「馬」の字の足が三本しかないことに気づき、死刑になるのではないかと恐懼したという話が『史記』に伝わっている。<中国出土資料学会編『同上書』 p.126>

Episode 学生を悩ます漢字書き取りの起源

 戦国時代の楚国では、大小の小と多少の少を区別しなかった。だから、もし秦ではなく楚の漢字の使い方を漢が継承していたら、わたしたちも「少学校」や「小年」と書いても書き取りで×を貰うことはなかったはずである。漢の高官の石建が、三本足の馬を書いて死刑を恐れたのは大げさとしても、現代の子供たちが漢字の書き取りに一喜一憂する姿は、明らかに秦の漢字文化の影響である。楚の漢字は「飾筆」と言って、無意味な筆画を添えても問題はなく、一つの言葉に対して複数の表記法が許容される傾向が秦よりも強かった。
 印鑑に篆書という古風な書体を用いて権威づけを行うのも秦の特徴で、他の国々では日常的な書体が印鑑に使われていた。その風習は、公印・実印に篆書を用いる現代の我々にも受け継がれている。私たちの漢字文化は秦と深く関わっているのである。<中国出土資料学会編『同上書』 p.127>
 日本の学校教育での、異様に厳格な漢字教育の源流は、秦にあったのですね。秦の篆書システムを継承したのが漢の漢字システムだったとすると、後世の我々にとっては、漢の劉邦でなく、楚の項羽が天下を取ってくれた方がよかったようです。