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李斯

中国の秦の始皇帝に仕えた法家の学者で丞相となり、その統一政策に関与する。郡県制の採用、文字統一、焚書坑儒などで重要な役割を果たした。二世皇帝擁立に尽力したが、宦官の趙高と対立し、処刑された。

 古代中国の法家の学者で始皇帝に仕え、その全国統一を助け、また丞相(秦の行政官の最高位)となって郡県制の実施、焚書・坑儒小篆(文字の書体の統一)の作成などの政策を始皇帝に建言した。前210年、始皇帝の死に当たっては、宦官趙高とはかり、末子胡亥を二世皇帝とすることを画策し、成功したが、後に趙高と対立し、前207年に二世皇帝によって謀反の疑いをかけられて刑死した。

始皇帝のブレーン

 李斯は始皇帝に仕えた学者であり、重用されて丞相までなった人物であるが、なかなか激しい生き方をした。もと楚の人であり、荀子の弟子として法家の思想を学んだ。その同門に法家の理論を大成した韓非がいた。李斯はに赴いて実力者呂不韋の食客となり、秦王政の護衛官に取り立てられ、次第に頭角を現した。
逐客令に反対 前237年、優れた技術で池水潅漑事業を指導した鄭国という人物が韓のスパイだと告発されたことをきっかけに秦で一種の外国人排斥法である「逐客(ちくきゃく)令」が出されそうになった。そのとき、自らも楚の出身で“外国人”だった李斯は秦王政に対し長文の建言を行い、それに強く反対した。李斯は国力を強め国際社会で地位を占めるには外国人の優れた者も登用しなければならないと説き、政はそれに動かされ、鄭国も許されることになった。これをきっかけに李斯の評価も高まり、政に重く用いられるようになった。
韓非を毒殺する 李斯は政にたいして東方の六国を離間させる策を講じ、認められてその官僚となった。そのころ韓の著名な学者となっていた韓非が秦に使節として来訪した。李斯は政に対し、より厳格な法による統治を説き、政もその思想に感服したが、李斯は韓非が重く用いられることをさけるため、韓に帰すと秦にとってよくないと政をたきつけ、韓非を捕らえさせ、密かに毒殺してしまった。

統一政策を立案

 秦王政が次々と東方の六ヵ国を攻略していったが、その過程でも李斯の献策が効を奏した形となり、ついに前221年始皇帝が即位すると、李斯は丞相(宰相と同じく臣下の最高位)としてその統一政策を担うことになった。まず、儒家の思想では理想的とされていた有力者を王として地方政治を任せる周の封建制を否定し、皇帝が全国を直接支配する理念にもとづき、郡県制を実施した。またそのために必要な文書の統一をはかり、漢字を小篆という字体に統一した。そして全国統一を達成した始皇帝が新たに匈奴や南方の百越に対して軍事行動を起こすと、その戦時体制を維持するために思想統制を強める必要を感じ、焚書・坑儒を実行した。

始皇帝の死と陰謀事件

 李斯はこのように始皇帝の最も信頼するブレーンであったが、前210年、始皇帝が最後の巡幸の途中、沙丘で死ぬと、同行していた李斯と宦官の趙高はその死を隠して咸陽に戻った。李斯には身の安全を図る必要があった。それは始皇帝の長男で人望も厚かった扶蘇が、焚書・坑儒に反対してていたからである。始皇帝は扶蘇を後継者に指名する遺勅を書いていたが、李斯は宦官の趙高とはかり、偽勅を作って末子胡亥を二世皇帝に仕立てあげた。長子扶蘇や将軍蒙恬に対しては謀叛の罪を着せて処刑してしまった。

李斯の死

 しかし、翌年、秦の土木工事などで苦しめられていた農民が蜂起し、陳勝・呉広の乱が起こると、二世皇帝は動揺を隠せなくなった。一方、宦官の趙高は実権を握る機会と考え、李斯が農民反乱と通謀していると二世皇帝に密告した。疑心暗鬼に駆られた二世皇帝は、前207年、一族もろとも死罪を命じ、李斯は咸陽の市場で公開処刑にかけられた。その刑は最も残忍が殺し方である腰斬の刑だったといい、その一族も三世代にわたって殺されてしまった。

李斯の弁明書

 処刑される前に李斯は二世皇帝に対し、最後の弁明を試み、長文の上奏書を提出しようとした。文筆に自信がある(事実、現代の魯迅も秦で最も優れた文章を残したのは李斯だといっている)李斯らしい力作だった。そこで李斯は自分は次のような“罪”を犯したと自虐的に書いている。
・東方の六ヵ国を併合して秦王を皇帝の位に就けたこと。
・北の匈奴、南の百越を討伐して領土を広げたこと。
・大臣引き立て、爵位を盛んしたこと。
・神々の社を建て宗廟を整えたこと。
・文字の筆画を改め、度量衡を統一したこと。
・馳道(咸陽を中心とした道路網)を建設したこと。
・刑罰を緩くし、税金を軽くしたこと。
 秦においては、最後の項を除いて、いずれも事実として李斯の功績に帰せられることであった。あえてこれらを自らの“罪”と表現し、実は自分の功績を誇るという手の込んだものだった。しかしこのせっかくの上奏も、囚人には上奏の権利はないという趙高によって握りつぶされ、二世皇帝の目には触れることはなかった。<吉川忠夫『秦の始皇帝』2002 講談社学術文庫 p.261-263>