焚書・坑儒
中国の秦の始皇帝が行った思想統制策。前213年、実用書以外の儒学などの書籍を焼き(焚書)、翌年、儒学者を含む学者を生き埋めにして殺害(坑儒)したとされる。
秦の始皇帝に登用された法家の李斯は丞相(大臣)に上りつめ、前213年、秦の統治に批判的な儒家などの書物を焼き払い、拒否する学者は死刑にすることを提案した。李斯の儒家弾圧の根拠は、儒家は過去の時代を理想化し、現代を批判して人々を惑わしていること、皇帝の出す法令に批判を加え、その権威をあやうくしていること、などにあった。
対外戦争の深刻化 前215年、始皇帝はそれまでの内政重視から積極外政に転じ、北方で将軍蒙恬を派遣して匈奴を追い、オルドス地方(黄河上流)を占領、前217年には万里の長城の建設を開始した。前216年には南方に進出、桂林・象・南海の三郡を置いた。このような対外戦争に踏み込む中、博士(宮中に仕える学者)の中に現状を評価する意見と過去を評価し学ぶべきであるという意見が対立した。李斯は、過去を肯定し今をそしる学者の言動に危険なものを感じ、今を学ばず、過去に学んで現状を批判するのは人民を惑わすと断じ、禁書令を進言した。「禁書令は対外戦争を戦っていくために採られた政策であった。」<鶴間和幸『同上書』p.157>
地下に眠っていた書籍 禁書令で実用書以外のすべての書物が焚書となって消滅したわけではないことは、それ以前の書物の多くが現在も知られていることからも判る。儒学者は論語など孔子の書物を家の壁の中に塗り込めて隠匿した、という話が多数伝えられているが、そこまでしなくとも、焚書が徹底を欠いていたことは、最近盛んに秦漢時代の墳墓から、木簡・竹簡や帛書(絹に書かれた書物)という形で出土していることからも判る。漢代に五経と定められた易経・詩経・尚書・礼記・春秋の原書が漢代から戦国時代まで遡って確認できるようになっており、「始皇帝の焚書坑儒という政策を儒家弾圧事件として過大に評価した前漢時代の儒家の立場を越えて、焚書坑儒の実態を見ていけるようになったのだ。」<鶴間和幸『同上書』p.162>
李斯は何を恐れたか 嶺南(中国南部)が征服された翌年の前213年、匈奴と百越(越族)に対する征服戦争の成功を賀する宴が咸陽宮で開かれた。博士たちは次々の始皇帝の寿をことほぎ、その統治を礼賛した。中でも僕射の周青臣が「諸侯は取り潰されて郡県となり、すべてが安楽を享受し、戦争の災禍はなくなった」と礼賛すると、始皇帝は相好を崩した。その和やかさに水を差したのが淳于(じゅんう)越(えつ)という儒者だった。彼は殷や周が千年余の長きを保ったのは「王室の子弟や功臣たちを分封し、王室の支柱と頼んだためでございます」、つまり過去の封建制を評価し、周青臣は過去に学ばず陛下にへつらっているだけだとこきおろしたのだ。これを聞いた李斯は、そもそも秦王朝の創業に当たって封建制に反対し、郡県制の施行を主張した立場から、許せない議論だと感じた。始皇帝から判定を任された李斯は、淳于越は封建制を蒸し返そうとしているが、それぞれの時代には時代の変化に即応した、その時の政治でなければならぬとし、始皇帝の現実の政治を肯定した。王の政治は先例に学ぶよりも、現実に対応しなければならないというのは李斯や韓非の先生に当たる荀子の思想でもあった。儒家の理想主義に対して、法家の現実主義ともいえる。その立場から、李斯は現実を知らぬ学者達が無用な理想論を振りまいて人心を惑わしているとして、そのような学者の追放と著作の焚書を始皇帝に献策したのだった。眼目は「古(いにしえ)を以て今を非(そし)る者」の否定だった。<吉川忠夫『秦の始皇帝』p.218 などによる>
坑儒の真相 権力にとって都合の悪い「古に学ぶ」路線は否定され、「今を師とする」路線が採られることになって、実用書以外の書物が焚書とされた。陝西省渭南市には焚書を行った場所と語り継がれている場所がある。しかし、「今」が規準となってしまうと、つまるところ始皇帝その人を批判することができなくなり、その周辺には阿諛迎合する人だけになってしまう。その中には盧生という、不老不死の術があるなどと言葉巧みに始皇帝に取り入ろうとする方士といわれる者もいた。方士の説や書物は実用の学として認められていたのだ。不老不死の妙薬を求めて日本に派遣されたという徐福(徐市とも)などもその一人だ。しかし、結局不老不死の薬など見つからず、盧生などの方士は姿をくらましてしまった。欺されたと知った始皇帝は、そのような方士を捕らえて処罰することにした。前212年、咸陽に残っていた方士たちは次々と捕らえられ、有無を言わさず生き埋めにされた。その数は460人を超えたという。この時、方士だけでなく、当時書生と言われた儒学者も含まれていた。これが「焚書」とつねに一対として記憶される「坑儒」事件の顛末である。「方士に裏切られた始皇帝の腹立ち、そのとばっちりが書生たちに及んだのである。」<吉川忠夫『同上書』p.227>
『史記』では、この事件を「術士を阬(あなうめ)にする」と書いている。阬は坑の本字で穴埋めにすること。ここでは術士、つまり方術の使い手であり、具体的には始皇帝をそしった盧生などの方士をいう。この時生き埋めになった460人の中には、方士だけでなく、実際には儒者も含めた諸生(学者)たちだったのであり、儒者を狙い撃ちにしたのではなかった。これを「坑儒」と言いかえたのは、後世の儒者たちであった。
焚書・坑儒の意義 これらの吉川氏・鶴間氏などの論考を読むと、焚書というのは、始皇帝や李斯が自己の体制を維持するために、歴史に学ぶことを否定しようとした、権力による思想と言論の統制であったことが判る。淳于越が「古に学べ」として封建制の復活を主張したのは孔子の論語にある『温故知新』の精神であり、儒者としての理想論だったろうが、その予測通りに、秦の郡県制は長続きせず崩壊し、その後の権力をにぎった漢の高祖は一部封建制を復活させざるをえなかった。「古に学ばなかった」李斯の郡県制は、時期尚早だった。しかし、この時点で革新性があった郡県制は、やがて漢の武帝の段階に制度として定着する。こうみていくと、「焚書・坑儒」の出来事は、単なる権力による思想統制事件としてだけではなく、歴史をどう見るか、にかかわる権力闘争だったと言えそうだ。
さらに、鶴間氏は、焚書坑儒は「孔子の学問そのものを弾圧したのではなく、戦時体制下の人民を不安にしたことが法に触れたのであった。もちろん残忍な行為があったことは否定できないが、一般に流布された「焚書坑儒」のイメージとはずいぶん違うはずである」<鶴間和幸『人間・始皇帝』2015 岩波新書 p.154>と述べている。どうやら、「戦時体制下の言論弾圧」という評価が最も当たっているようだ。
古文と今文 漢の武帝末期に、魯の共王が宮殿を拡張して孔子の家を壊したところ、いずれも「古字」で記された『尚書』『礼記』『論語』『孝経』などの書籍が見つかった。このことから、或る日突然出現した秦以前(つまり秦始皇帝以前)の「古字」(古文)で記されたテキストに信憑性を認める知識人は古文辞学派、口頭伝授で伝えられ漢代通行の文字(今文)に信頼を置く知識人は今文学派と呼ばれるようになった。この話は古文テキストの由来を確かなものにするために、古文学派が捏造したとも言われている。 → 劉向
儒学者を弾圧
始皇帝は丞相李斯の建言を入れ、焚書令を発し、秦国以外の史書や、詩経・尚書などの書物を提出させ、焼き払った(書物を焼いたことから焚書といわれる)。対象は医薬・占い・農業書以外の書物に及び、儒学の書物なども深まれていた。翌年は、皇帝を誹謗するものがいたという理由で、首都咸陽にいた460余人の学者を捕らえて、生き埋めにした(この中には儒者もいたので、坑儒といわれる)。坑儒の坑は生き埋めにすること。この出来事は、漢の時代に儒教が官学となってからの歴史書(司馬遷の『史記』)に書かれていることなので、誇張があるかも知れない。ただ、法家の思想に基づき法律の力で国家を統治する必要があると考えた始皇帝にとって儒家の仁義孝悌の思想や「徳治主義」という理念は、古い封建制度を認め、今の郡県制を中心とした始皇帝の新しい統治とは相容れないと考えたことは確かであろう。参考 焚書・坑儒の実態と真相
焚書・坑儒は始皇帝の晩年に行われた、その圧政、あるいは悪政のひとつとされることが多いが、実際に行われたのか、行われたとすればその規模はどうだったのか、また何故行ったのか、その意義は何かなどについて多くの議論が成されてきた。司馬遷の『史記』始皇帝本紀に伝える始皇帝の「禁書令」は、丞相の李斯が提案したもので、次のような内容だった。<鶴間和幸『秦の始皇帝―伝説と史実のはざま』p.153->- 『秦記』以外の歴史書の焼却。(秦以外の歴史を抹殺する)
- 博士以外の所持する詩経、尚書、諸子百家の書物の焼却。
- 詩経、尚書について集まって語る者があれば市中にさらし首にする。
- 「古を以て今を非(そし)る者は賊せん(一族を処罰する)」
- 官吏がそのことを見逃したら同罪。
- 30日の内に焼かなければ入れ墨の刑にして築城の労働を課す。
- 医薬、卜筮(占い)、種樹(農業)の書物は焼かなくともよい。
- 法令を学ぶ者は官吏を師とせよ。
対外戦争の深刻化 前215年、始皇帝はそれまでの内政重視から積極外政に転じ、北方で将軍蒙恬を派遣して匈奴を追い、オルドス地方(黄河上流)を占領、前217年には万里の長城の建設を開始した。前216年には南方に進出、桂林・象・南海の三郡を置いた。このような対外戦争に踏み込む中、博士(宮中に仕える学者)の中に現状を評価する意見と過去を評価し学ぶべきであるという意見が対立した。李斯は、過去を肯定し今をそしる学者の言動に危険なものを感じ、今を学ばず、過去に学んで現状を批判するのは人民を惑わすと断じ、禁書令を進言した。「禁書令は対外戦争を戦っていくために採られた政策であった。」<鶴間和幸『同上書』p.157>
地下に眠っていた書籍 禁書令で実用書以外のすべての書物が焚書となって消滅したわけではないことは、それ以前の書物の多くが現在も知られていることからも判る。儒学者は論語など孔子の書物を家の壁の中に塗り込めて隠匿した、という話が多数伝えられているが、そこまでしなくとも、焚書が徹底を欠いていたことは、最近盛んに秦漢時代の墳墓から、木簡・竹簡や帛書(絹に書かれた書物)という形で出土していることからも判る。漢代に五経と定められた易経・詩経・尚書・礼記・春秋の原書が漢代から戦国時代まで遡って確認できるようになっており、「始皇帝の焚書坑儒という政策を儒家弾圧事件として過大に評価した前漢時代の儒家の立場を越えて、焚書坑儒の実態を見ていけるようになったのだ。」<鶴間和幸『同上書』p.162>
李斯は何を恐れたか 嶺南(中国南部)が征服された翌年の前213年、匈奴と百越(越族)に対する征服戦争の成功を賀する宴が咸陽宮で開かれた。博士たちは次々の始皇帝の寿をことほぎ、その統治を礼賛した。中でも僕射の周青臣が「諸侯は取り潰されて郡県となり、すべてが安楽を享受し、戦争の災禍はなくなった」と礼賛すると、始皇帝は相好を崩した。その和やかさに水を差したのが淳于(じゅんう)越(えつ)という儒者だった。彼は殷や周が千年余の長きを保ったのは「王室の子弟や功臣たちを分封し、王室の支柱と頼んだためでございます」、つまり過去の封建制を評価し、周青臣は過去に学ばず陛下にへつらっているだけだとこきおろしたのだ。これを聞いた李斯は、そもそも秦王朝の創業に当たって封建制に反対し、郡県制の施行を主張した立場から、許せない議論だと感じた。始皇帝から判定を任された李斯は、淳于越は封建制を蒸し返そうとしているが、それぞれの時代には時代の変化に即応した、その時の政治でなければならぬとし、始皇帝の現実の政治を肯定した。王の政治は先例に学ぶよりも、現実に対応しなければならないというのは李斯や韓非の先生に当たる荀子の思想でもあった。儒家の理想主義に対して、法家の現実主義ともいえる。その立場から、李斯は現実を知らぬ学者達が無用な理想論を振りまいて人心を惑わしているとして、そのような学者の追放と著作の焚書を始皇帝に献策したのだった。眼目は「古(いにしえ)を以て今を非(そし)る者」の否定だった。<吉川忠夫『秦の始皇帝』p.218 などによる>
坑儒の真相 権力にとって都合の悪い「古に学ぶ」路線は否定され、「今を師とする」路線が採られることになって、実用書以外の書物が焚書とされた。陝西省渭南市には焚書を行った場所と語り継がれている場所がある。しかし、「今」が規準となってしまうと、つまるところ始皇帝その人を批判することができなくなり、その周辺には阿諛迎合する人だけになってしまう。その中には盧生という、不老不死の術があるなどと言葉巧みに始皇帝に取り入ろうとする方士といわれる者もいた。方士の説や書物は実用の学として認められていたのだ。不老不死の妙薬を求めて日本に派遣されたという徐福(徐市とも)などもその一人だ。しかし、結局不老不死の薬など見つからず、盧生などの方士は姿をくらましてしまった。欺されたと知った始皇帝は、そのような方士を捕らえて処罰することにした。前212年、咸陽に残っていた方士たちは次々と捕らえられ、有無を言わさず生き埋めにされた。その数は460人を超えたという。この時、方士だけでなく、当時書生と言われた儒学者も含まれていた。これが「焚書」とつねに一対として記憶される「坑儒」事件の顛末である。「方士に裏切られた始皇帝の腹立ち、そのとばっちりが書生たちに及んだのである。」<吉川忠夫『同上書』p.227>
『史記』では、この事件を「術士を阬(あなうめ)にする」と書いている。阬は坑の本字で穴埋めにすること。ここでは術士、つまり方術の使い手であり、具体的には始皇帝をそしった盧生などの方士をいう。この時生き埋めになった460人の中には、方士だけでなく、実際には儒者も含めた諸生(学者)たちだったのであり、儒者を狙い撃ちにしたのではなかった。これを「坑儒」と言いかえたのは、後世の儒者たちであった。
焚書・坑儒の意義 これらの吉川氏・鶴間氏などの論考を読むと、焚書というのは、始皇帝や李斯が自己の体制を維持するために、歴史に学ぶことを否定しようとした、権力による思想と言論の統制であったことが判る。淳于越が「古に学べ」として封建制の復活を主張したのは孔子の論語にある『温故知新』の精神であり、儒者としての理想論だったろうが、その予測通りに、秦の郡県制は長続きせず崩壊し、その後の権力をにぎった漢の高祖は一部封建制を復活させざるをえなかった。「古に学ばなかった」李斯の郡県制は、時期尚早だった。しかし、この時点で革新性があった郡県制は、やがて漢の武帝の段階に制度として定着する。こうみていくと、「焚書・坑儒」の出来事は、単なる権力による思想統制事件としてだけではなく、歴史をどう見るか、にかかわる権力闘争だったと言えそうだ。
さらに、鶴間氏は、焚書坑儒は「孔子の学問そのものを弾圧したのではなく、戦時体制下の人民を不安にしたことが法に触れたのであった。もちろん残忍な行為があったことは否定できないが、一般に流布された「焚書坑儒」のイメージとはずいぶん違うはずである」<鶴間和幸『人間・始皇帝』2015 岩波新書 p.154>と述べている。どうやら、「戦時体制下の言論弾圧」という評価が最も当たっているようだ。
焚書・坑儒のその後
明らかに文化破壊行為であった焚書・坑儒は、秦がわずか15年で命脈を絶ったあとも影響を及ぼした。前191年、漢王朝は民間人の蔵書を禁止した命令である挟書律(きょうしょりつ)を解除した。すると、壁の中に塗り込められていた書籍(すなわち木簡・竹簡)が出現しだした。焚書によって焼かれなかった書物は、家の壁に塗り込まれるなどして隠されていたのである。また『尚書』の学を伝えた伏生という人は秦の統一前から漢代初期まで生きて、師から口頭で教わった内容を暗記し、弟子に口述する「歩く書籍」として存在した。古文と今文 漢の武帝末期に、魯の共王が宮殿を拡張して孔子の家を壊したところ、いずれも「古字」で記された『尚書』『礼記』『論語』『孝経』などの書籍が見つかった。このことから、或る日突然出現した秦以前(つまり秦始皇帝以前)の「古字」(古文)で記されたテキストに信憑性を認める知識人は古文辞学派、口頭伝授で伝えられ漢代通行の文字(今文)に信頼を置く知識人は今文学派と呼ばれるようになった。この話は古文テキストの由来を確かなものにするために、古文学派が捏造したとも言われている。 → 劉向