蒙恬
中国の秦の始皇帝に仕え、匈奴制圧にあたった武将。秦の長城の建設にあたった。
蒙恬(もうてん)は秦の将軍。前215年、始皇帝の命を受け、その長子扶蘇を奉じ、30万の軍勢を率いて匈奴の制圧に乗り出し、オルドス地方(黄河が大きく湾曲している内側の砂漠地帯)に進出した。さらに蒙恬は戦国の各国が作っていた長城をつなげて、北辺の守りとする「万里の長城」の建設を指揮した。蒙恬は始皇帝の信任篤い老将軍であったが、始皇帝の死後、丞相李斯と宦官の趙高の策謀によって自殺に追い込まれた。
(引用)公子や重臣たち、それにすこしでも気骨のある人物は趙高によって投獄され、あるいは死刑を宣告された。蒙毅(蒙恬の弟)も殺された。蒙恬も毒を仰いだ。死に臨んだ蒙恬は、「わしは天に対してなんの罪もない。罪もなしに死なねばならぬのであろうか」と嘆息した。だがややあって、こうつぶやいたという。
「わしの罪はたしかに死に値する。臨洮(りんとう)から遼東まで、一万余里にわたる長城を築いた。その際、地脈を断ち切ることはなかったであろうか。これこそ、わしの罪だ」
蒙恬はじつは万里の長城建設の責任者であった。ちなみに、かれは毛筆の発明者とされる文化英雄でもある。<吉川忠夫『秦の始皇帝』2002(初刊1986) 講談社学術文庫 p.254>