秦
中国の王朝で、初代皇帝始皇帝が前221年に中国全土を最初に統一した。中国の歴史で皇帝政治を創始し、郡県制の施行など様々な統一策を実施したが、わずか15年で瓦解し、漢王朝に交代した。
秦 始皇帝時代の中国
鶴間『人間・始皇帝』p.96などをもとに作成
中国最初の統一国家が現れたことは、遠く西方世界にも伝わったようで、中国を China というのも、秦(シン)から来ているとされている。China、シナ(支那)が、中国を意味することばとなったのは秦に由来する。
秦の中国統一
秦王政(正ともいう)は、前247年、13歳で秦王となったが、その時点で秦は渭水盆地を中心に戦国諸侯の中では最有力の国家となっていた。鄭国渠という潅漑用水の開設などで国力を充実させ、前230年頃に実権を握った始皇帝は、積極的に東方の6国の攻略に乗り出し、韓、趙、魏、楚、燕を次々に制圧、最後に斉を降伏させて中国の統一に成功、前221年に始皇帝として即位した。中国の統一を成し遂げた始皇帝は郡県制の中央集権体制を実施し、都咸陽を中心に、馳道(ちどう)という道路を設置した。さらに貨幣・度量衡・文字を統一策を実施していった。
始皇帝の外征
始皇帝は国内の統一策が一段落した前215年に北方の匈奴を討つために、将軍蒙恬を派遣して後退させたた。蒙恬はその南下に備えて万里の長城を建設した。また翌前214年には軍隊を嶺南地方に派遣して、南海郡(現在の広東)、桂林郡(広西地方)と象郡(ベトナム北部)の3郡を置いた。このような新たな外政や土木工事は民衆の負担を増大させたことで民心が不安定になることを恐れ、李斯の意見を容れて焚書・坑儒を実行した。始皇帝の死と二世皇帝
不老不死を願った始皇帝であったが、前210年巡幸先の河北で死去した。50歳。死に当たって始皇帝は長子扶蘇を次の皇帝にする勅書を作っていた。扶蘇は匈奴に備えて北辺の守りに就いていたが、人望があり、丞相の李斯の焚書坑儒などの政策に反対し、宦官を嫌っていた。そこで李斯と宦官の趙高は始皇帝の死を極秘とし、勅書を偽作して末子の暗愚な胡亥を皇帝に仕立て、扶蘇は謀反の罪で死罪にさせられた。こうして胡亥が即位して二世皇帝となったが、宦官の趙高のみを用い、李斯を遠ざけるようになった。李斯は二世皇帝に法家の厳格な政治をもとめる直言をしたがいれられなかった。翌前209年7月、陳勝・呉広の反乱がおこると、たちまち反乱は全土に拡大すると、二世皇帝は趙高の讒言をよって李斯を反乱軍に通じていると疑い、前207年、その一族とともに処刑してしまった。有能な官僚を亡くした秦は急速に求心力を失った。
Episode 二世皇帝を「馬鹿」にした話
二世皇帝の側近の宦官である趙高は、謀略をしかけて丞相李斯を追い落とすことに成功し、自らその後釜に納まった。わずか20歳で暗愚な皇帝をあやつり、得意の絶頂にあった趙高は、おのれの力を群臣に示そうと一芝居打った。(引用)一日、趙高は一匹の鹿を二世皇帝の目の前にさしだし、「馬でございます」と言った。二世皇帝は笑った。「丞相、冗談じゃない。鹿を馬だなどとは」しかし、さすがの二世皇帝も、丞相趙高が陳勝・呉広の乱を鎮めることができないでいることに苛立つようになり、さらに前207年、劉邦の率いる大軍が咸陽を目指していると聞いて、どうなっているんだ!と趙高をしかった。このままだと自分が危ないと感じた趙高は宮中で二世皇帝を謀殺し、その甥といわれる子嬰という男を秦王に立てた。三世皇帝としなかったのは、もはやその統治が全中国に及んでいないことが明白だったからだ。しかし、子嬰は趙高の本意を疑い、宮中で趙高を刺し殺してしまう。こうして秦王朝は内部から崩壊していった。
趙高が周りの者に確かめたところ、ある者は黙り込み、ある者は馬だと言った。その時、正直に鹿だと言った者は、ひそかに処罰を受けた。このことがあって以後、趙高の言うことなすことすべてに、だれ一人として異を唱える者はいなくなった。<吉川忠夫『秦の始皇帝』2002(初刊1986) 講談社学術文庫 p.264>
なお、宦官の趙高は、逆臣の典型として日本でも知られており、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」という有名な冒頭の続きに、
「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异(しゅい)、唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、楽しみをきはめ、諫(いさめ)をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁ふる所をしらざッしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。」といわれている。
秦の滅亡
前209年7月、陳勝・呉広の乱が勃発すると、各地で農民反乱が続き、秦は一挙に崩壊に向かった。農民反乱は内部対立から瓦解したが、それに呼応して決起した劉邦や項羽などの勢力は強大となり、秦の中心地関中を目指し進撃を開始した。まず前206年、劉邦が関中に進攻して秦王子嬰に降伏を勧告すると、子嬰は首に紐をかけ、白馬に飾りのない車を引かせ、天子の玉璽と符を劉邦に捧げた。首に紐をかけたのは自害する覚悟を示し、白馬と飾りのない車は葬礼用のものであった。劉邦は玉璽と符を受けとり、ここに秦王朝は形式的にも滅んだ。劉邦は子嬰を殺さず、咸陽に入城、項羽の本隊が来るのを待った。約一ヶ月遅れて咸陽に入った項羽は、子嬰以下の秦の王族を殺し、咸陽の宮廷と阿房宮を焼き払い(その火は三ヶ月燃え続けたという)、驪山陵をあばいて財宝をことごとく奪い取った。<西島定生『秦漢帝国』講談社学術文庫版などによる>世界を驚かせた二大発掘
秦王朝のわずか15年の歴史は、従来はほとんどが司馬遷の『史記』などの後世の歴史書によって論じられてきたが、1970年代になって驚くべき遺跡が二ヶ所で見つかり、発掘が進んだ結果、その理解は深まるとともに修正を余儀なくされている。その二大発掘とは、始皇帝の兵馬俑の発掘と、大量の始皇帝時代の竹簡が出土した睡虎地(すいこち)秦代墓の発掘である。始皇帝の兵馬俑の発掘 1974年、始皇帝の驪山陵の東方1.5kmの地点の畑で、農民が井戸を掘っていたところ、地下5mから陶製の人物像の破片が発見された。それを機会に本格的な発掘が行われ、大量の、しかも整然と並べられた兵士と軍馬の俑(よう)が出土した。兵士と馬は等身大よりやゝ大きく、鎧や馬具まで成功に表現され、最大の一号坑東向きの長方形で長さ230m、幅62mで、中から全部で6000体の兵士、32匹の軍馬にも及んだ。この兵馬俑は文献にも口伝にも伝えられていなかったので、他にもあるのではないかと期待されたが、今のところ始皇帝陵の東側でしか見つかっていない。おそらく、陵を都の咸陽に見立て、その東方の六国に備える意味があったと考えられている。なお、1980年には、始皇帝陵の西北の墳麓から四頭の馬に曳かれた御者付きの銅馬車の、二分の一模型が二台発見された。これは始皇帝が全国巡幸の際に乗っていた鹵簿(ろぼ、乗物)を表していると考えられている。<西島定生『秦漢帝国』講談社学術文庫 p.64-66>
睡虎地秦代墓の発掘 1975年、湖北省雲夢(うんぼう)県睡虎地で始皇帝時代の墳墓が発掘され、大量の竹簡が副葬されていた。その1号墳から遺体がまとうように全部で1155枚の竹簡が見つかった。秦の竹簡はそれまで見つかっていなかったので、一挙にこれだけ出土したことで世界を驚かせただけでなく、その内容が始皇帝時代の法律とそれに基づく裁判の記録であり、中国古代の法制史の常識を破る衝撃的なものだった。そこには始皇帝の時代は、けして暴君による恣意的な政治が行われていたのではなく、精密な法律に基づいた、厳格な行政や裁判が行われていたことが明らかになった。この睡虎地秦代墓の発見に続いて、現在まで中国各地で秦・漢時代を中心とした木簡・竹簡が出土し、そのような「紙の発明以前の書写材料」を総称して「簡牘(かんとく)」といい、中国史研究の新たな資料として注目されている。<中国出土資料学会編『地下からの贈り物』2014 東方書店>