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秦の始皇帝陵と兵馬俑

秦の始皇帝陵の東方に設けられた地下坑から見つかった多くの兵馬をかたどった陶製の像。始皇帝陵を守備する意味で設けられ、皇帝権力のあり方、当時の作陶技術などを示す遺跡、遺物となっている。

始皇帝陵の造営

 紀元前221年に中国を統一したの初代皇帝始皇帝は前210年に死去し、首都咸陽の東方に、生前から造営されていた驪山陵に葬られた。始皇帝陵は、皇帝になる以前の秦王政が、王位についた前247年の直後から造営が始まった。王が即位とともに墳墓造営を開始するのは当時の一般的であった。皇帝となってからも続けられた陵墓造営は、万里の長城とともに、民衆の負担となったため、秦の早期滅亡の要因の一つとなった。
 前210年に始皇帝が死去した時点でも完成していなかったため、二世皇帝が父帝を埋葬してからも、周辺の附属墓の造営が続いたものと思われる。その過程で陵墓の東方1.5kmの地点に兵馬俑がつくられた。しかし、秦王朝は前206年に滅亡し、そのとき咸陽城、阿房宮とともに項羽の軍隊によって焼き討ちされ、驪山陵も荒らされたという。現在は二重の仕切りに囲まれた、広大な墓域に、四角錐の墳丘が残っているが、内部の発掘は行われていないので、皇帝陵そのものの構造や副葬品は計り知ることができないままになっている(最近行われた調査については下の「始皇帝陵の地下宮殿」を参照)。

兵馬俑坑の発見

兵馬俑坑

兵馬俑坑

 ところが、1974年、始皇帝陵の東、約1.5kmあたりの地点で農民が井戸を掘っていたところ、地下約5mのところから壊れた陶製の人物像の破片が出てきた。この偶然の発見を端緒として、本格的な発掘が行われたところ、巨大な遺構が発見され、大量の兵士と馬を模した像が出土し、世界を驚かせることとなった。これが始皇帝の兵馬俑坑である。
 4つの坑道が発見されているがその中で最大の第1号坑は長さ230m、幅62m、深さ5mで、その中に約6000体の陶製の兵士と馬の像が整然と並べられていた。俑(よう)とは陶製の人形のこと。それらは等身大よりややおおきく、一人一人の表情の違う、個性を持っていた。この兵馬俑は、文献には記されておらず、まったく未知のものであったので人々を驚かせた。この発見によって、秦の始皇帝の権力のあり方を示す大きな資料が提供されることとなった。

世界遺産 秦の始皇帝陵・兵馬俑坑

 本来の始皇帝陵である驪山陵とともに、始皇帝陵を警備する意味で造営されたのであろうと考えられる兵馬俑坑を含め、1987年に世界遺産に登録された。関心は専ら兵馬俑の方に向けられており、現在では遺構を守る覆いがつくられ、見学できるようになっている。 → UNESCO World Heritage List 'Mausoleum of the First Qin Emperor' Gallery

様々な兵馬俑

 兵馬俑が埋まっていた坑には、一号から四号坑まで四ヶ所見つかっているが、そのうち4号号は未完で何も埋まっていなかった。一から三号坑は「秦始皇兵馬俑博物館」として公開されており、300人の研究者と職員が発掘と保存と調査、展示の仕事をしている。年間の来場者は140万、多い年で230万に上るという。このような大量の俑を、何故、どのようにして焼いたのか、など様々な推論があるが、まだ判っていないことの方が多い。
 兵馬俑は一体一体が異なる表情をしている。粘土で成形され高温で焼かれた陶器であるが、表面には漆が塗られ、彩色されていたことが判ってきた。その多くは彩色が剥がれてしまっているが、最近、保存状態のよいものが数体見つかっており、それには踊っている姿や相撲取りの姿、片膝をついて矢をつがえている姿など、特殊な例も見られる。
 漆は、現在の華北では生育しないので、秦漢時代にはこの付近も現在より温暖で、漆が生育していたと考えられる。また、漆が盛んに用いられていた華南地方から運ばれたものであるかも知れない。いずれにせよ、厖大な資料はまだ調査が完了しておらず、今後も新しい発見が期待されている。<鶴間和幸『始皇帝陵と兵馬俑』2004 講談社学術文庫 p.24-35>

始皇帝陵の地下宮殿

 秦の始皇帝の陵墓である驪山陵は、西安市臨潼区にあり、墳丘は南北350m、東西345m、高さ76mの四角錐型で版築(黄土を上から強く叩いて固める)で築かれている。その周辺に、東西580m、南北1355mの内城、さらにその外側に東西940m、南北2165mの南北に長い長方形の外城が残っている。
 墳丘の地下深くに石室があり、皇帝の遺骸が納められていると思われる。さらに墳丘を中心に様々な陪葬坑がある。内城の内側、墳丘のすぐ西に銅車馬坑、内城と外城の間に石鎧坑などが見つかっている。そして、外城から東に1.5kmの位置で発見されたのが、兵馬俑坑である。
地下宮殿の調査 2002年、中国の国家プロジェクトとして、始皇帝陵をリモートセンシングと地球物理学の最先端技術で、実際に発掘を行わずに、内部構造を探索する調査が開始された。その中間報告で明らかになった、始皇帝陵の地下宮殿と言われる内部構造は次のようなものである。  地下宮殿の中央の空間は東西170m、南北145mの大きさの長方形で、版築の壁で囲まれている。墓室は地下宮殿の中央30mの深さにあり、東西約80m、南北約50m、高さ15mの空間である。墓室は石灰石で守られ、周囲は16~22mの厚い石垣で覆われている。そこに始皇帝が埋葬されているはずで、墓室内は浸水していないし、崩れてもいないようだ。墳丘の地下には、地下宮殿に地下水が浸入しないように、防水・排水渠がめぐらされていることがわかった。<鶴間和幸『始皇帝陵と兵馬俑』2004 講談社学術文庫 p.15-16,66-67>
始皇帝陵航空写真

秦・始皇帝陵と兵馬俑坑の位置 Google Map により作成


日本の古墳との違い

 秦の始皇帝陵など、古代中国の皇帝の墳墓は、地表面上に大きな墳丘を造るが、遺体を納める墓室は、地下深くつくられる。それに対して日本で紀元後3世紀ごろに始まり、4~6世紀の「古墳時代」に盛んにつくられた古墳は、人工的に盛り土をした墳丘の上部に縦穴の石室をつくり、遺体を納める。また日本の古墳で多い前方後円墳は独自の形式である。
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書籍案内

鶴間和幸
『始皇帝陵と兵馬俑』
2004 講談社学術文庫

著者が2001年に『始皇帝の地下帝国』(講談社現代新書)として発表したもに、その後の発掘調査の情報を加筆して、あらたに文庫化した。

鶴間和幸
『秦漢帝国へのアプローチ』
世界史リブレット6
1996 山川出版社