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郡国制

漢(前漢)の高祖の全国統治法。秦の郡県制と周以来の封建制を併用したもの。皇帝直轄地以外に、一族や家臣の有力者を諸侯国、列侯として封土を与えた。漢は封建諸侯領を徐々に削減し、呉楚七国の乱を鎮圧してからは実質的に郡県制による中央集権化を実現した。

 帝国の初代、高祖の統一政策の中心となった地方行政制度。皇帝の直轄地としての関中(長安の周辺地域)には、郡県制をしき、官吏を派遣して直接支配し、それ以外の地には一族や功臣の有力者を諸侯王として配して世襲的にその地の支配権を任せる封建制を復活した。彼らはそれぞれ王と言われ、その治める地域は国と言われた。このような封建制と郡県制をあわせたものが郡国制である。漢のはじめは、皇帝の直轄地が十五郡、諸侯王に与えられたのは三十余郡であったというが、高祖は少しずつ諸侯王の領地を奪い統制を強めようとし、その後、呉楚七国の乱で諸侯王の勢力を抑えることに成功してから、漢は全土を実質的に郡県制的に直接統治することができた。

郡国制

 郡国制は、秦の郡県制の土台の上に、功臣や親族に封土を分かち与える封建制を実施したものであった。その封建領土には、王国と侯国があった。
王国 戦国時代の「諸王」の伝統を継承し、諸侯王とも言われた。諸侯王に与えられた領土は「郡」を単位とする広大なものであった。劉邦が皇帝となったときには韓信ら七人の王がいた。これらは始め有力な家臣で劉氏以外のものが封じられていたが、高祖一代の間に次第に種々の口実によって「リストラ」され、多くは王位を奪われていった。例えば「背水の陣」で有名な韓信は、始め斉王に封じられ、後に楚王となったが、高祖はその威勢を恐れ、淮陰侯という列侯におとされ、最後は反乱を企てたとして一族もろとも殺された。
侯国 劉邦が蜂起して以来のいわば旗本にあたるもので「列侯」または戦国時代と同じように諸侯と言われた。地方の大小の「県」が与えられ、そのような侯国は全土で100国にものぼった。列侯の地位は世襲され、その地位は○○侯と呼ばれた。例えば蕭何(長安城の造営を指揮した)は沛郡の酇(さん)県8000戸に封建され、文終侯を諡(おくりな)された。

Episode 生けるがごとき前漢の貴婦人

 1971年に中国の湖南省長沙市の馬王堆で前漢時代の墳墓が発掘された。精巧な棺や美しい絵が織り込まれた布帛など多数の副葬品と、女性のミイラが出土し、人々を驚かせた。出土した帛書から、前漢の諸侯王の一つ長沙王に仕える軑(たい)侯という家臣の夫人の墳墓であることが判明した。長沙王は姓が呉氏で、漢王室の劉姓ではない異姓の諸侯王が漢王室によって滅ぼされた中、最後まで残った異姓諸侯王であった。その長沙王に仕える家臣の軑侯の夫人がこの墓の主である。
(引用)最初に見つかった一号墓は、最も規模が大きく、巨大な材木を組んだ大槨室の中には、それぞれ独特の漆の文様が施された<入れ子>状の四層の棺が納められていた。棺を開けると、精緻な絹織物で幾重にも包まれた50歳前後の女性の遺骸が現れた。その遺骸は、地下深くどっぷりと水に浸かっていたために、ミイラならぬ「湿屍」となっており、内臓も保存され、筋肉には弾力が残るほどの姿を留めていた。この<生けるがごとき軑侯夫人>発見のニュースは、当時、驚きをもって世界を駆け巡ったものである。<尾形勇他『中華文明の誕生』1998 世界の歴史2 中央公論社 p.293-294>
 この馬王堆漢代墓からは軑侯夫人の遺体だけでなく、絹の布に書かれた厖大な書物(帛書)などが出土した。これが諸侯王の墓ではなく、その家臣の、そのまた夫人の墓であることには驚かされる。漢の諸侯王が一地方の王とは言え、絶大な威勢と財力を有していたことが判り、とすれば漢の皇帝の権力は推して知るべし、であろう。また郡国制という制度を考える上でも参考になる。馬王堆漢代墓から出土した軑侯夫人の遺体と帛書、竹簡、その他の遺品は、現在長沙市の湖南省博物館で保存、展示されている。 → People’s China コラム 長江文明を訪ねて
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尾形勇/平㔟隆郎
『中華文明の誕生』
世界の歴史 2
1998 中央公論社