高祖(漢の初代皇帝劉邦)
秦を倒し、次いで項羽との争いに勝って前202年、統一王朝漢の初代皇帝となった劉邦が、前195年に死去し、廟号として高祖と呼ばれた。
漢の高祖
中国のトランプより
中国王朝の皇帝名
なお、「高祖」は漢の初代皇帝としての廟号(廟=みたまや、の名前。ビョウゴウ)である。彼は人名としては劉邦で、死後の皇帝の廟号である「高祖」と言われるようになったが、歴史上は生前も高祖として説明している。以下の各王朝の始祖も廟号として「高祖」と言われるのものが多く、唐の李淵もそうである。他に太祖という廟号も多い。なお、一般の皇帝の名前の文帝とか武帝というのは、諡号(シゴウ、おくりな)といい、死後に皇帝の徳を称えて贈られる称号であるが、やはり歴史記述上は便宜的に生前から使用する。漢の高祖の統一政策
漢の高祖(劉邦)は皇帝となると秦の郡県制を継承し直轄地には秦と同じ郡、県を置いて官吏を派遣したが、同時に秦で廃止された王を復活して一族と功臣には郡を、それに次ぐ家臣には県を、封土(世襲の支配権)として与えた。これが郡国制である。このように高祖は、秦の始皇帝のような中央集権体制を強制的に全土に及ぼすことはせず、それ以前の封建制を復活させて妥協をはかり、現実的な統治策をとったといえる。また、北方の匈奴に対しては、前201~前200年の作戦に失敗し、高祖自身が平城(現在の大同市)付近で冒頓単于の軍に7日間にわたって包囲され、屈辱的な和約で解放されてから、攻勢をとることが出来ず和平策をとった。前195年に高祖劉邦が死去すると、皇后で2代恵帝の母の呂后が実権を握り、その一族が進出し呂后専制といわれる事態となった。しかし、呂后の死後、劉王室と功臣周勃、陳平らが呂氏一族を倒し、第5代の文帝が即位してようやく安定を回復した(前180年の呂氏の乱)。その後、景帝の時に起こった有力諸国の反乱である呉楚七国の乱を鎮圧し、次の武帝の時代に漢帝国の皇帝政治は全盛期を迎える。
Episode 悪女と化した糟糠の妻、呂后
漢の高祖の呂皇后は、劉邦が沛で挙兵した頃から夫と行動し、一時は項羽の捕虜になるなど苦労を共にした、糟糠の妻であった。それだけに劉邦は皇帝になってからも呂皇后に頭が上がらず、二人の間に生まれた孝恵を皇太子とした。しかし、色好みの劉邦は寵愛していた戚夫人との間に生まれた如意を皇太子にすげ替えようと考えた。これは臣下の反対で実現しなかったが、呂后は自分と息子の将来にとって強い脅威となると恐れ、高祖が死んで孝恵が即位し恵帝となると、呂后は如意を毒殺し、戚夫人を幽閉、なんとその手足を切り落とし、目を抉り、薬で耳を聞こえないようにして厠(便所)に投げ込み、人彘(じんてい、人豚)と呼ばせた。おまけに恵帝にその姿を見せつけた。若い恵帝はショックを受け、それ以後、現実を忘れて享楽にふけるようになり、わずか在位7年で若死にしてしまった。父や母に似ず、優しくか弱い(人間的な)こころをもった若者だったのだろう。意外な展開に困った呂后は、恵帝の後宮の女が生んだ子を皇后との間の子と偽って次の皇帝にしたて、事実を知る皇后を殺害してしまった。そのことを知った少年皇帝も殺され……と呂后の悪事は続く。事実上の皇帝として振る舞うようになった呂后は、劉邦の「劉氏以外のものを王侯とするな」という遺訓を破り、呂氏一族を王侯に登用し、国政の実権を握ったまま死んだ。ようやく漢創業以来の重臣であった周勃や陳平が立ち上がり、呂氏一族は追放され、恵帝の弟が文帝として即位した。この呂后は則天武后、西太后と並んで、中国の三大女傑とされている。<村松瑛『中国烈女伝』1968 中公新書 p.154>