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呉楚七国の乱

漢(前漢)の前154年、郡国制のもとでの有力国王である呉王・楚王などの七王が漢の王国領削減策に反発して起こした反乱。景帝によって鎮圧され、諸侯王の分権的な勢力は無力化し、漢帝国の中央集権体制確立の前提となった。

 の第6代景帝の即位後、前154年に、有力な諸侯王国のうちの、呉・楚・趙など、中国東南部の七国が、中央政権に対して連合し、挙兵した内乱。各国の王は劉氏一族で高祖によって国王として封じられた者の子孫であった。当時の中国を二分する内乱となったが、彼らが中央政府に反発したのは、中央政府が諸侯王の封地を削減して皇帝の直轄地を拡大しようとしたからであった。しかし反乱はわずか三ヶ月で失敗し、鎮圧された。それを境に漢帝国の諸侯抑圧策は強化され、次の武帝の時代には郡県制がさらに拡大され、実質的な中央集権体制となる。

高祖死後の漢帝国

 前195年、高祖(劉邦)が死去し、その皇后であった呂后は子の恵帝が若いこともあって、謀略を用いて次々と有力家臣を退けて呂氏一族を登用し、「呂后専制」といわれる実権を握った。しかし、前180年、呂后が死ぬと周勃や陳平といった老臣がクーデタで呂氏一族を排除し、恵帝の弟文帝を立てて態勢を立て直した。この文帝と次の恵帝の時期は「文景の治」ともいわれて、比較的安定した。
 高祖の存命中から、郡国制の下で国王に封じられていた劉姓以外のいわゆる異姓諸侯王は、徐々に排除されていたが、次に問題となってきたのは、劉氏一族でありながら諸王や列侯に留められている有力者の存在であった。例えば高祖の末子である淮南(わいなん)王劉長は文帝を無視する態度をとり、文帝によって謀叛を疑われて封土を取り上げられた。

景帝の削藩策「強幹弱枝」

 景帝は、即位して三年目に法家の官僚で御史大夫(宰相に当たる)の晁錯(鼂錯とも。ちょうそ)の意見を容れ、王国領の削減(削藩策)を採用した。その策は、中央政府(幹)に権力を集中して強くし、地方の諸王(枝)を抑えて弱くすることで「強幹弱枝」といわれた。それに反発したのが、文帝とは従兄弟にあたる呉王の劉濞(りゅうび)であった。呉国は長江河口地方に「三郡五十三城」といわれる広大な領域をもち、銅や塩の産地を含む豊かな土地であった。晁錯ははじめは呉に手をつけず、楚や趙の領地を口実を設けて削りはじめ、諸王は警戒しはじめた。ついに呉王に対し会稽・余章の両郡を削ると通告した。これらは塩の産地であったので、呉王は反乱を決意した。

呉楚七国の乱の経緯

 前154年、呉王劉濞は、楚王・趙王・済南王・淄川王・膠西王・膠東王の六王をさそい、王都の広陵(現在の江蘇州揚州市)で蜂起し、淮河を越えて楚国軍と合流し、関中に迫る勢いを示した。軍を派遣したが鎮圧に失敗した景帝は、懐柔策として削藩策を提唱した晁錯を斬り、妥協を図った。しかし反乱は収まらず、呉王は「東帝」と称して戦闘が続いた。
 呉軍は現在の河南省あたりまで北進したところで勢力が尽き、敗走が始まり、長江を渡ったところで呉王は殺され、楚王も自殺、他の諸王も何れも殺されるか自殺して反乱は約三ヶ月で収束した。

乱後の情勢

 呉楚七国の乱が鎮圧されたことによって、王国の領域は削減され、郡の統治下に組み込まれた。またそれまでは国王が任意に選んでいた各国の<国家老>以下の主だった官吏は、一般の郡と同じように、すべて中央から派遣されることになった。こうして、漢帝国による中央集権体制は大きく前進し、次の武帝の時代を迎えることとなる。<尾形勇他『中華文明の誕生』1998 世界の歴史2 中央公論社 p.310-313>

事実上の郡県制へ

 呉楚七国の乱の後も郡国制は存続したが、諸侯王が直接領地を統治することはできなくなった。王国の官僚機構も、行政を担当していた丞相がたんなる「相」と改名した以外、すべて廃止された。そして相は中央から派遣されて直接統治すことととなり、諸侯王は単に領地から上がる租税を受け取るだけの存在となった。これによって国は、郡に郡守が派遣されると同じように、中央政府の統治下に入ることになったので、事実上の郡県制へと移行した。<渡邊義浩『漢帝国』2019 中公新書 p.24>
POINT  高校世界史の学習では、呉・楚以外の五国の国名、国王勢力の削減を主導した晁錯(鼂錯)、反乱を主導した劉濞などは覚えておく必要はない。ポイントは、呉楚七国の乱を克服したことで、漢帝国が実質的な郡県制による中央集権支配を可能にし、武帝の全盛期の前提となったことを押さえておこう。