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長安

漢に始まる中国の都城。漢の武帝が築き、後漢では洛陽に都が移ったが、魏晋南北朝時代には前趙・前秦・後秦・西魏・北周の都となった。中国を統一した隋は近くに大興城を建設、唐は新たに長安城が築き、7~8世紀が長安を中心とした中華文明が開化した。この時期、周辺各地からの使節、商人も集まり国際都市として繁栄し、特に道教寺院だけでなく西域から伝えられた仏教、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教などの寺院も存在した。

 中国本土の西部、渭水地方(関中)の中央に当たる現在の陝西省西安の近郊に作られた、漢や唐の時代の都城。西安の地域は、周の都鎬京、秦の都咸陽が築かれた地域である。秦に代わって全土を支配した劉邦は、前202年に初代皇帝(高祖)となって王朝を創始した。漢は始め、洛陽を都としたが、前200年2月に関中に戻って遷都し、長安として新たに都城を建設した。都城は第二代皇帝恵帝のとき、前190年に完成した。現在の西安の郊外にその遺跡を見ることが出来る。

漢の都としての長安

 漢の初代高祖(劉邦)のときに都城の建設が始まったが、完成したのは第2代の恵帝のとき、前190年であった。現在は遺跡となっているが、その規模は、東壁5940m、南壁6250m、西壁4550m北壁5950mの不規則な形で、その各辺に門があり、南西部に宮殿の未央宮(びおうきゅう)の台地がある。
 高祖の未央宮に続いて、歴代の皇帝がそれぞれ宮殿を増築した。それらを囲んで高さ8m、全長26mの城壁を廻らし、城内には東西に市がもうけられ、商業地域とされた。漢の長安城は、最初に全体プランがあって計画的に造営されたものではないので、出来上がった姿は隋唐時代の長安城のような整然とした碁盤目状の街路はなかった。前漢末の記録では、長安の人口は戸数で8万8百、口数で24万6200とあるが、一戸平均が5~6人とすれば、実際の人口は40万、さらに王侯貴族や兵士を加えれば50万ぐらいになったと思われる。後漢では都は洛陽に移る。<尾形勇他『中華文明の誕生』1998 世界の歴史2 中央公論社 p.299-301>

魏晋南北朝時代の長安

 後漢が都を東方の洛陽に遷した後の長安は首都としての機能を失ったが、311年に南匈奴の劉聡が洛陽を陥れ(永嘉の乱)、晋の愍帝が長安に逃れると、一族劉曜が長安を陥れて晋を滅ぼし、318年に長安を都に前趙を建てた。五胡十六国の騒乱の中で、次に五胡の氐の苻健が351年に長安を都にして前秦を建国した。
 前秦の都長安では、仏図澄(後趙の都洛陽で活動)の弟子の道安が活躍し、苻堅の帰依を保護を受けて、前秦についで長安を支配した五胡の一つ羌の建てた後秦の姚興(ようきょう)は、そのころ西方の涼州にいた鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の高名を知り、後涼を攻めて滅ぼた401年に長安に招いた。鳩摩羅什は長安で安住し、サンスクリットの仏教経典を漢語に翻訳するという大事業を行った。五胡十六国時代の長安で、道安、鳩摩羅什らの活動で仏教が盛んになったことで中国仏教の基盤がつくられた。
 その後、五胡十六国は北魏によって統一され、北魏は最初は平城を、後に洛陽を都とした。北魏が東西に分裂して成立した西魏が長安を都とし、それは北周に継承された。そして長安を都としていた北周から出た隋の文帝が南北朝の分裂を終わらせて中国を統一、長安の近郊に大興城を建設し、さらに唐が都長安として復興させ、中華文明の繁栄の主な舞台となる。その地は現在の西安につながっている。

唐の都としての長安

 は隋の大興城を継承し、さらに大規模にして完成させた。唐の長安城は南北が8651m、東西が9721m。北辺の中央に大極殿を中心とした宮城があり、碁盤目状の道路で東西南北に区画されていた。外側は城壁で囲まれ、城門は日暮れから夜明けまでは閉じられている規則であった。宮城周辺の三省六部の官庁街の他に、東西にがあり、商人が住み、営業していた。盛唐の玄宗時代には人口100万と言われ、またイラン系のソグド人など、周辺の世界から渡来するものも多く、国際都市として繁栄した。長安城内には、多数の仏教寺院(日本の円仁などが学んだ大興善寺、則天武后が建立した大薦福寺、玄奘のいた慈恩寺(大慈恩寺)などが有名。それぞれ、雁塔という多層の塔をもつ)や、道教の寺院である道観があった。その他、ネストリウス派キリスト教である景教の寺院(大秦寺)、ゾロアスター教の寺院である祆祠があった。安史の乱を機にマニ教も伝えられ、摩尼教寺院として大雲光明寺が建てられた。 → 唐の文化

参考 日本の平城京と平安京

 唐の長安を模したと言われる日本の平城京は南北約4800m、東西約4300m。平安京は南北約5200m、東西約4500mであった。また日本の平城京、平安城には長安城とは異なり、外壁はなかった。