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五銖銭

漢の武帝が前119年から発行を開始した金属貨幣(銅銭)。秦の半両銭に代わる統一通貨として発行され、経済を安定させ、唐代まで約700年にわたって流通した。

五銖銭  漢の武帝の時に発行された貨幣。漢ははじめ、始皇帝の半両銭を踏襲したが、貨幣の不足から民間の鋳造を許した。また、諸侯国にも貨幣の発行を認めた。その結果貨幣制度が混乱し、貨幣価値が低下したので、たびたびの改鋳の末、武帝時代の前119年、五銖銭が制定された。それは、武帝時代の漢の財政が、度重なる外征の出費で困窮していたため、種々の増税、塩・鉄・酒の専売制均輸法平準法などの財政策を実施するために、安定した通貨制度が必要であったからであった。

武帝による五銖銭の発行

 五銖の銖とは重さの単位であり、貨幣の重量を五銖とさだめ、表面に五銖の文字を鋳出した円形に四角の穴をあけた。さらに漢は、前113年、諸侯国での貨幣鋳造を禁止し、中央官庁の鋳造発行する五銖銭だけを正式の通貨とした。その結果、漢の通貨制度は安定し、私鋳銭の鋳造も割に合わなくなったため姿を消していった。この形式は以後の中国貨幣の基本として、唐のはじめの開元通宝(621年制定)まで700年にわたって踏襲された。

五銖銭の意義

 前漢は当初、秦以来の半両銭を通貨として用いていたが、半両銭はすでに民間での鋳造が許されていて、貨幣制度として混乱が進んでいた。そのような半両銭の混乱を安定させたのが武帝が前119~118年ごろに流通させ始めた五銖銭であった。
(引用)五銖銭は「五銖」を銭文とし、その意味で、従来の半両銭とは大きき異なっていた。半両銭の大きさや重さは、時代によって異なっていたが、銭文が「半両」である点は動かなかった。だが武帝期になると、一時的に「三銖」を銭文とする三銖銭が鋳造され、最終的に「五銖」を銭文とする五銖銭が定着した。このように銭文の改訂が試みられた理由は、……銭文の乱れが、当時すでに押しとどめられないほどであったからであろう。ゆえに官側は、銭文と銭の実質重量を合致させねばならなくなったのである。それは、銭に対する“国家の意向”が“民間の慣習”に屈服した瞬間だった。
 このように、「半両銭のあかし」である銭文に手を加えた以上、銭一枚一枚の均質性・同一性を保つには、半両銭の歴史に終止符を打ち、半両銭には歴史の表舞台から残らず退場してもらわねばならない。こうして前漢武帝期以降、唐代までの700年間以上にわたり、五銖銭の時代が訪れたのである。<柿沼陽平『中国古代の貨幣――お金をめぐる人びとと暮らし』2015 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 p.71-72>
 五銖銭の五という数字は前漢帝国の聖数だった。秦が十二を聖数としていたのに対して、武帝は「五」を用いることで漢帝国を全面に押し出す意図があったものと思われる。五銖銭の形は700年間維持され、前漢末からは民間の私鋳銭の流通などはあったが、三国時代以降も、市場での便利な交換手段、納税の手段として流通し続けた。<柿沼『同上書』p.72-73>