黄巾の乱
後漢末の184年、太平道などの教団の指導した農民反乱。鎮圧後、動乱は全国に広がり、三国時代へと移る。
宗教運動から農民反乱へ
後漢の末期の184年に起こった大農民反乱。生活に苦しむ農民を扇動したのは、張角の唱えた太平道という新興宗教であった。張角は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり、天下大吉」をスローガンにして甲子の年(西暦184年)の3月5日に反乱を起こした。蒼天とは後漢王朝を意味し、黄天は「太平道」の信奉する神であった。彼らは「黄天」を象徴する黄色の頭巾を巻いて印としたので黄巾の乱という。河南省を中心とした反乱は河北省に及んだ。後漢政府は当時「党錮の禁」で捕らえていた党人(宦官と対立していた官僚たち)を許したが、それは党人と農民反乱が結束することを防ぐためであった。その上で、豪族の協力を得て12月までに黄巾の乱を鎮定した。しかし、その後も散発的な反乱が続き、中央政府の威信はなくなり、各地の有力豪族が自立していった。黄巾の乱は、中国全土が動乱の時代に入る契機となったといえる。 → 後漢の滅亡 三国時代