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後漢の滅亡

後漢は184年の黄巾の乱以来、混乱が続き各地に群雄が割拠し、実質的に滅んでいたが、魏の曹操の保護のもと形式的には220年まで存続し、最後の皇帝献帝が曹丕に位を禅譲して終わった。

 後漢王朝では外戚宦官の対立から政治が混乱し、さらに宦官勢力を批判した官僚(党人)が166年と169年の二度にわたる党錮の禁によって弾圧されたことによって宦官による権力中枢の支配が強まった。

後漢末の社会 貧農の激増

 政治の実権を握った宦官は豪壮な邸宅を作り、宦官と結びついた地方の豪族は私権を行使して人民の田地や宅地を奪っていった。このような宦官と豪族の一体となった動きのなかで、178年には官爵(官職と爵位)の売り出しが行われ、豪族は金銭で官職を得る風潮が一般化した。このような豪族の領主化傾向が進行したことにより、その一方での貧農の増加が大きな社会不安の原因となっていった。
(引用)かくて169年の第二次党錮事件以後の十年あまりの間に、郷村社会では、富殖豪族の自己拡大、すなわち領主化傾向の露骨な発動によって、共同体秩序の崩壊と中小農民の没落流亡が加速度的に進行し、膨大な数の貧農が生み出されていった。中間階級としての知識人層が、儒教的共同体の再建と、豪族の領主化傾向反対をめざしておこした清議運動の挫折――党錮――ののち、その重圧が中間層をこえて、直接小農民の肩の上にのしかかってきたのである。<川勝義雄『魏晋南北朝』1974初刊 2003 講談社学術文庫 p.125>

新興宗教と民衆反乱

 後漢末の貧農の急増など社会的な不安が広がると、太平道五斗米道という民間の新興宗教団体の活動を生み出し、とくに太平道は184年黄巾の乱の勃発という民衆反乱を起こした。反乱そのものは主力が同年末までに倒されたために終わったが、ひき続き全国に農民反乱が拡大していってももはや漢王室には統制力は失われていった。

後漢王朝の終末

 189年に12代皇帝霊帝が死去すると皇后の弟の何進は弘農王(少帝)をたて、外戚として実権を握ろうとして首都洛陽の防衛を管轄していた官人のトップ袁紹と図り、山西地方の軍事勢力の董卓らを都に召集した。それを察知した宦官勢力は、機先を制して宮中で何進を殺害した。反撃に転じた袁紹は宮中に軍隊を導入して宦官を皆殺しにしてしまった。その直後に洛陽に入った董卓は、チベット系の族や匈奴の騎兵を率いて強大であり、たちまち袁紹に代わって洛陽の実権を握った。董卓は弘農王を廃してその弟を建て、第14代献帝とした。袁紹は洛陽から東方に逃れ、反董卓の勢力を糾合した。後の英雄の一人曹操もこの時は袁紹に従っていた。
 このような後漢宮廷の動乱をみた地方の有力者はそれぞれに独自の動きをするようになり、各地に群雄が生まれていった。翌190年、東方の群雄を動員した袁紹は反撃して洛陽の董卓を攻撃、董卓は洛陽を焼き払って献帝を伴い長安に移った。しかし、192年にはその董卓も部下の呂布に殺され、献帝は長安を脱出した。このように189年の霊帝の死、翌年の洛陽焼亡によって後漢王朝は事実上終わりを告げていたが、献帝はその後、河南省の許を拠点として曹操に保護され、曹操は漢の皇帝を保護したことで大義名分をえることとなり、213年に魏公、216年には魏王を称した。

献帝、魏の曹丕に帝位を禅譲

 漢王室の劉氏の血統を受け継ぐ献帝はまったく有名無実化し、中国は各地には成長してきた豪族を糾合した軍事政権が生まれた。献帝を奉じ、黄河流域の華北を抑えた魏の曹操に対し、長江以南には呉の孫権が、中国西部には蜀の劉備が立って天下三分のかたちとなった。
 最終的には220年後漢の献帝は禅譲という形式で曹操の子の曹丕(魏の文帝)に帝位を譲って退位し、ここに漢王朝は消滅した。  → 三国時代