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党錮の禁

後漢末の宦官と党人(官僚派)の対立事件。166年と169年の二度にわたり、宦官勢力が党人を弾圧、多数を殺害し公職から追放した。その後も宦官が政治の実権を握る状況が続き、後漢王朝衰退の要因となった。

 後漢の末、宦官儒学の学徒である官僚とが対立した。官僚たちを党人と言い、党人が実権を持つ宦官によって捕らえられ、出仕を禁じられる事態が起こった。このことを「党錮の禁」という。郷挙里選(選挙)によって官人となった人々は儒教理念を掲げて政治にあたろうとして、皇帝の側で実権を握る宦官勢力を批判した。彼らの選出基盤である全国の郷村でも宦官批判が強まった。そのような理念的な対立にとどまらず、後漢末には大きな政治的な権力闘争として表面化した。

宦官による官僚弾圧

 危機を感じた宦官勢力は、まず166年、弾圧に踏み切り、党人の中心人物李膺りよう以下、200人あまりを捕らえ、投獄した。これによって政治権力をにぎった宦官は、さらに169年には、李膺ら百名以上を処刑し、多くを再び投獄した。このような「党錮令」による党人派に対する弾圧は約20年続いたが、後漢の末期の184年黄巾の乱が勃発すると、後漢政府は党人と黄巾の賊が連携するのをおそれて、禁令を解除した。
 「党錮の禁」は皇帝による専制政治のゆがみが表面化したものであり、後漢王朝の衰退の表れでもあった。2世紀中頃に起こった「党錮の禁」から、後漢は統治能力を失ってゆき、2世紀末の黄巾の乱を経て、三国時代に移行していく。

党人・宦官・外戚

 宮廷内でこのような「党人」と「宦官」が勢力争いをするようになったが、それが表面化するのは、およそ「外戚」が政治に介入するような事態が起こったときであった。その三者の関係を平たくまとめ、まずおさえておこう。
党人とは 漢・後漢を通じて政府の官僚となったのは儒教的教養を身につけた豪族層であった。彼らが官僚になるためには太学(中央の官吏養成機関)を通して推挙されるか、郷挙里選によって選挙されるか、のいずれかであった(まだ科挙制度は始まっていない)。前者の場合も後者の場合も、推薦制であるから推薦してくれた地方官や「私塾」の教師と推薦された者の間に上下の関係が生まれ、また学閥的な私的集団が生まれた。そのような人脈で結ばれた官僚の派閥を「党」といい、そのメンバーを「党人」といった。彼らの中には立場を利用して私腹を肥やすことに熱心な者もいたが、多くは儒教的な倫理観を持ち、清廉な政治に邁進しようとした党人たちで、彼らは「清流」とよばれた。
宦官とは 宦官は去勢された男子で、もともとは皇帝と皇后の身辺、そして後宮に仕えるにすぎなかった。しかし、皇帝・皇后の最も近くに仕えることから、その意向を最もよく知る立場にあった。宮中には多くの宦官がいたが、彼らも集団を作り、宮中ではしばしば皇帝をコントロールした。宦官の中で位をあげるために賄賂などが横行し、人脈ができていった。宦官になるのは罪を得て宮刑に処せられたためであったが、親があえて子供を去勢したり、中には自ら去勢して宦官になったものもいるという。宦官になれば、それだけの権勢と富を得られたのだった。またその権勢と富は世襲された。といっても実子はいるはずがないので(中には不思議に子供のいる宦官もいたようだが)、養子をとった。そこにも人脈と派閥が生まれる理由があった。そのような情実で結ばれた宦官は、清流派の官僚から見れば、「濁流」と見なされたのだった。
外戚とは 外戚とは皇后の出身氏族、つまり皇后の実家、里のこと。特に皇后の父は皇帝の義父として宮廷でも発言権を持った。皇帝が成人であり、まともであれば問題が起こることは少ないが、子供で帝位に就いた場合(または暗愚な人物であった場合)、皇后を通じて外戚が皇帝をコントロールし、実権を振るうことがよくあった。そのようなとき、外戚と宦官の利害はほぼ常に対立関係にあった。中国の王朝では最後の清王朝に至るまで、常に外戚が政治の実権を握り、官僚・宦官と対立するという事態が起こっている。これは朝鮮王朝でも同様だったし、日本の平安時代の藤原氏も外戚として実権をふるった。ただし日本では科挙制度が発達しなかったので官僚は存在せず、また宦官も存在しなかったという世界史的には特異な例である。
宦官が何故政治的な力を持ったか 官僚が政治に当たるのは当然として、宦官がなぜ政治に介入、あるいは実権を握るという事態になるのだろうか。それには、上述の外戚の存在を理解する必要がある。官僚たちも宮廷内での宦官の存在を無視できなくなるのは「外戚」の存在のためであった。あるいは、幼帝が成人して、外戚を疎ましく思って排除しようとしたとき、頼りになるのは宦官だった。外戚が官僚に代わって皇帝をコントロールするようになったとき、あるいはその恐れが出てきたとき、官僚は外戚の力に対抗するために、宦官を利用したのだった。あるいは、幼なかった皇帝自身が成人して、外戚を疎ましく思って排除しようとしたとき、頼りになるのは宦官だった。こうして外戚・宦官・官僚の三者は常に宮廷内の主導権を巡って争うようになり、その過程で起こった党錮の禁の事件では、皇帝が宦官の側に立って官僚の排除を認めたので、宦官の勝利に終わった。

後漢の外戚政権

 後漢第4代の和帝が88年に10歳で即位すると、外戚のとう氏が政治を壟断ろうだんするようになった。外戚の跋扈ばっこをみかねた官僚は、宦官の協力を得て竇氏一族を倒した。次の安帝が13歳で即位、今度も官僚と宦官は外戚の鄧氏を倒した。これ以降も外戚と宦官の暗闘は続き、宦官は次の皇帝に順帝(在位125-144)を擁立した。このときから宦官も養子を持って家系を継承できることになった。しかし順帝は一方で外戚の梁氏を重用して宦官の勢力を抑えようとした。順帝の死後、外戚の梁氏は梁太后とその兄の梁冀りょうきが沖帝(在位144-145)・質帝(在位145-146)・桓帝(在位146-167)と次々と幼帝を立てて実権を守った。159年に梁太后が亡くなると桓帝は待ちかねたように宦官の手を借りて梁氏を滅ぼした。

第一次党錮の禁

 桓帝が159年に外戚梁氏を倒した後、宦官は宮廷で大きな力を持つことになった。宦官たちは蓄財につとめ、侯覧という宦官は邸宅381カ所、田畑は118項にのぼったとされる。宦官の横暴に対して批判の世論がおきると、宦官勢力は先手を打って儒家官僚のトップ李膺を「太学の学生を子飼いにして党派を作り、朝廷を誹謗して風俗を乱している」として誣告した。皇帝の桓帝は激怒して166年12月、皇帝の官僚の李膺らを捕らえ、党人200人が連座し終身的な公職追放に処した。李膺は「登竜門」の故事(下掲)で知られる硬骨の清流派であったがかろうじて死を免れ、恩赦で釈放された。それは李膺の門下生のなかに宦官の子弟も多かったため、宦官が連座を恐れて桓帝に恩赦を勧めたからだった。<渡邉義浩『漢帝国――400年の興亡』2019 中公新書 p.225-227>

第二次党錮の禁

 桓帝が167年に亡くなり、次の皇帝となった霊帝(在位167-189)もわずか12歳だった。すると外戚の大将軍竇武とうぶは李膺・陳番らを再任用して宦官勢力の一掃をはかったが、宦官に機先を制せられ、竇武は自殺、李膺・陳番ら700人が処刑された。翌169年には多数の「清流」人士が公職を追放され、朝廷から党人は一掃された。この事件は、後漢王朝の政治改革の芽を摘み、また社会不安を引きおこして、一気に滅亡への道を開くこととなった。<尾形勇・岸本美緒『新版世界各国史3・中国史』1998 山川出版社 p.98-101 などによる>

清流と濁流

 後漢末には外戚を排除した宦官が権力の中枢を握った。地方の有力者の中には選挙によらずに、宦官の養子になったり、賄賂を送ったりして高官の地位を得ようとするものも現れた。三国志で活躍する曹操の父は曹謄という宦官の養子になり、大金を出して太尉という高い位を買った人だった。そのような宦官政治を批判したのが、儒教を学んで地方から中央に進出した官僚たちであった。
(引用)宦官政治は人々が官界に登場する道を閉ざしてしまいましたから、反対には利害関係もからんでいたのですが、反対する人々は主として儒教を学んだ人たちですから、宦官政治の混濁は自分たちの理念にも反するわけです。そこで反対者は自分たちを「清流」と称し(これにたいし前述の宦官と結んだ人々を“濁流豪族”とよぶ学者がいます)、自分たちの主張を正論(清論、清議)であると信じていました。反対運動は猛烈をきわめましたので、宦官らもこれにきびしい弾圧を加えました。この事件を「党錮」「党禁」とよんでいます。宦官らは反対者が党派を結んでいるとみて「党人」と称し、これいをいっせいに禁錮に処したからです。当時の禁錮というのは、官僚(士大夫)の身分を剥奪して、家に蟄居を命ずることです。党錮は二度にわたり(166,169年)、なかには殺される人も出てきました。<堀敏一『中国通史』2000 講談社学術文庫 p.122>

Episode 「梁上の君子」と「登竜門」

 弾圧を受けながら宦官派と対決した後漢末の清流派名士の中でも陳寔ちんしょく李膺りようは屈指の存在だった。陳寔は高潔を以て鳴らし、彼の説教を聞き「梁の上の君子」まで恐れ入ったという。梁の上の君子とは泥棒のこと。また李膺もシビアな態度で宦官と対立したことで知られ、当時、彼の屋敷の表座敷に通されることを「登竜門」と称した。これが「関門を突破して世に出るお墨付きをもらう」意味の故事として使われた古い例である。登竜門の故事は黄河上流の峡谷の滝を魚が登ると龍になるという伝説から来ている。<井波律子『故事成句でたどる楽しい中国史』2004 岩波ジュニア新書 p.117>

宦官政治の終わり

 184年に始まった黄巾の乱は鎮圧されたものの、その後も各地で反乱が相次ぎ、後漢王朝の統制力が失われていく中、政権中枢では相変わらず政争が繰り広げられていた。こんどは外戚の何進かしんが清流派党人を利用して宦官の一掃を図った。189年に何進は首都の近衛部隊の長官の袁紹えんしょうと結んで宦官勢力を排除しようとしたが、事前に察知され宮中で惨殺されてしまった。それをうけて袁紹は宮中に軍隊を引き入れて宦官を皆殺しにした。この時、宮中の宦官は老いも若きもすべて誅殺され、死者二千人に上ったが、その中には髭がなかったため宦官とまちがえられて殺された者もいたという。<川勝義雄『魏晋南北朝』1974初刊 2003 講談社学術文庫 p.134>
 この事件によって宦官政権は終わりとなったが、同時に後漢王朝も実質的な最後を迎えることとなった。 → 後漢の滅亡
 官僚と宦官の対立は、中国の歴代王朝でも続き、特に、明末の東林派と非東林派の党争が有名である。また朝鮮王朝でも長く党争が続いた。