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劉向

前1世紀末、前漢末の儒学者で、儒学の古文献を復活し訓詁学を興した。また『戦国策』を編纂した。

 劉向 前77~後6年 りゅうきょう、と訓む。前漢末期の儒学者、文献学者。儒学の経書は始皇帝の焚書坑儒によって失われてしまったので、口頭で伝承されたものを復元して書物とされていた。これらの漢代の隷書体で書かれたテキストは今文(きんぶん)と云われた。ところが漢代には各地から戦国時代の古い書体(篆書)で書かれた木簡や竹簡が発見され(焚書を避けるために壁に塗り込められていた)、この古いテキストは古文と云われるようになった。今文と古文には内容にも違いがあり、儒学者の間にいずれを採るかの論争が起こった。

訓詁学の基礎をつくる。

漢の宮中に保管されていた書物と民間から新たに発見された古文との相違を校訂し、定本を作成する必要が出てきたが、その困難な作業を行ったのは、前漢の成帝の命を受けた劉向であった。劉向は大部の木簡、竹簡を整理・分類したが、儒家、道家、法家などの諸子百家の分類を行ったのも彼である。この作業によって経典研究の学問である訓詁学の基礎ができた。また、劉向は錯乱していた遊説の士の献策の類を校訂し、時代順に編纂して『戦国策』をまとめた。
三統説  劉向は、儒家の経典研究を進めた上で、陰陽家の神秘思想である讖緯説を結びつけ、「三統説」という一種の未来予見を説いた。三統説とは、歴代の王統を黒・白・赤の三つの統に還元し、夏を黒統、殷を白統、周を赤統としてそれ以後の王朝はこの三統の循環を交替の理法とするものであった。この三統説は、劉向の子の劉歆(りゅうきん)に継承され、劉歆は王莽によるの建国に協力した。<西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫 p.273>
 劉向の子の劉歆は、王莽に仕えその思想的指導者として新の国師となったが、王莽の失政が続き各地に農民・豪族の反乱が続くと、将軍王渉、大司馬董忠とともに王莽を殺して降伏しようとした。しかし陰謀が発覚し、自殺した。 <西嶋『同上書』 p.424>