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中国で漢の王位を簒奪した王莽が8年に開いた王朝。復古主義的な政治で社会が混乱し、赤眉の乱、豪族の離反によって23年、わずか15年で崩壊した。

 西暦8年、漢の外戚であった王莽がたてた王朝。『周礼』(しゅらい)による復古主義的な政策をとったが現実性を欠き、いずれも失敗し、各地の農民の反乱、豪族の離反を招き、わずか15年で滅亡した。

新の理想主義と現実無視

 王莽は、原理的な復古主義を唱える古文派の儒学者である劉歆(りゅうきん。前漢の劉向の子)をブレーンとして、『周礼』や『礼記』などの儒教の経典に示された理想的社会を実現しようとした。まず、官職名を周の時代に復し、地方の行政組織も古代風に再編成した。さらに次々と制度と規則を改めていったが、それらは実情に合わない形式的なものに過ぎず、かえって行政は滞り、官吏は不正に走るようになった。
 財政は塩・鉄・酒の専売に依存したが、一方で新しい通貨を二十八種類も鋳造したため経済は混乱し、不安が広がった。土地制度としては周の井田制を復活させて、耕地をすべて公有として平等に分配するという理想を掲げた。これは豪族の大土地所有を制限するという狙いがあったが、豪族の激しい反発を受け、不満を持つ豪族は各地で反乱を起こすようになった。

赤眉の乱と豪族の離反

 このような現実を無視した復古主義政治は豪族の離反を招いただけでなく、農民の不満を強めていった。17年、山東省の琅邪(ろうや)で息子を役人に殺された呂母という女性が百人ほどを集めて反乱を起こすと、翌18年には貧しい農民や浮浪者が集まり、数十万の勢力を持つ赤眉の乱に広がった。さらに漢王朝の一族の劉玄や劉秀など、有力な豪族の離反が続き、まず23年、劉玄の軍が長安に入って王莽を殺害し、新王朝はわずか15年で滅びた。  
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