中華思想
中国、漢民族の自国、自民族を中心に置く世界観。
漢民族は自国を世界の中心にあって、花が咲きほこっている国という意味で「中華」といい、その周辺の異民族に優越すると考えていた。そのような漢民族の思考を中華思想、あるいは中華意識、華夷思想ともいう。渭水流域の中原に成立した周王朝に始まり、春秋・戦国時代を経て形成され、漢代には確固たる漢民族の世界観となった。周辺民族をその方面別に東夷、南蛮、西戎、北狄と呼んだ。漢民族はこれらの民族を異民族ととらえたが、多くは民族的に同一である。また、これらの言葉には当初は蔑視の意味はなかったが、周代になると犬戎といわれる北方民族の侵入が始まり、戦国時代から秦時代・漢代になると強大な匈奴帝国の圧迫を受けるようになって、それへの恐怖心から蔑視の意味が含まれるようになった。
南蛮 なんばん。漢民族の中華思想で、南方の異民族を意味する。周代までは、江南地方の漢民族をさし、さらに中央政権の支配領域が広がるにつれて、中国南方の少数民族を指すようになった。日本では安土桃山時代から南方から渡来したポルトガル人を指すようになった。
西戎 せいじゅう。漢民族の中華思想で、西方の異民族とされた人々。戎は古代の兵器の意味で、本来は槍を使うのが上手い人々の意味だった。
北狄 ほくてき。漢民族の中華思想で、北方の異民族を指す。狄(てき)は本来は「羽でつくった舞い衣」の意味。もともと夷蛮戎狄は甲胄をつけ、武器などを持って舞う男舞いをさす言葉であったが、朝廷の四門で軍舞を奉仕する四方の少数民族の軽蔑の意味はふくまれていなかった。しかし前4、5世紀になると、戎狄を恐れるあまり中国人と血のつながりがないものとされるようになった。<貝塚茂樹『中国の歴史』上 岩波新書 p.7>
中華思想の拡張
漢・後漢や三国時代、隋・唐など漢民族の王朝は、周辺諸民族に対して中華思想にもとづいて冊封体制という国際秩序をつくりあげた。その間、五胡十六国から北朝の諸王朝や契丹族の遼や女真族の金などの華北支配を受けることもあり、特に宋代の朱子学では漢民族の中国支配の正当性を強調するため、華夷の別を強調するようになった。中華思想の変質
モンゴル人の元、満州人の清による中国支配の時期には、中華思想は変質し、非漢民族でも儒教や漢字など漢文化を受容すれば「中国の民」であると考えられるようになった。朝鮮(李朝)では、清に服属しながら、清は非漢民族ではないので、むしろ儒教の正統性は朝鮮が継承したという意識から小中華思想という事大的な考えが生じることとなった。中華思想の克服
そして「中華民国」から、中華という語句は中国のすべての民族を含む国家の名称として用いられるようになる。なお、自国を他の諸民族の国家に優越するという民族感情はどの民族にもみとめられる(古代ギリシア人が異民族をバルバロイとしたことなど)のであり、偏狭なナショナリズム(その最も行き過ぎたものがナチスのアーリア人信仰)に陥らないためにも他の文明に対する理解と寛容が必要であり、世界史の学習もそのために有効であるといえる。周辺民族に対する呼称
東夷 とうい。漢民族の中華思想で、東方に異民族を指す。夷は弓をいることの上手い民族という意味。日本では「えびす」ということばにあてられ、奈良朝政府から見て東北地方の蝦夷を指す言葉とされたが、中国では日本人も東夷である。南蛮 なんばん。漢民族の中華思想で、南方の異民族を意味する。周代までは、江南地方の漢民族をさし、さらに中央政権の支配領域が広がるにつれて、中国南方の少数民族を指すようになった。日本では安土桃山時代から南方から渡来したポルトガル人を指すようになった。
西戎 せいじゅう。漢民族の中華思想で、西方の異民族とされた人々。戎は古代の兵器の意味で、本来は槍を使うのが上手い人々の意味だった。
北狄 ほくてき。漢民族の中華思想で、北方の異民族を指す。狄(てき)は本来は「羽でつくった舞い衣」の意味。もともと夷蛮戎狄は甲胄をつけ、武器などを持って舞う男舞いをさす言葉であったが、朝廷の四門で軍舞を奉仕する四方の少数民族の軽蔑の意味はふくまれていなかった。しかし前4、5世紀になると、戎狄を恐れるあまり中国人と血のつながりがないものとされるようになった。<貝塚茂樹『中国の歴史』上 岩波新書 p.7>