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冊封体制

古代~中世の東アジアで中国王朝と周辺諸国間に成立した国際秩序。漢に始まり、隋唐時代に典型的に現れ、その後も形式的に続いた。

 さくほうたいせい。古代の東アジアにおいて、中国の王朝が周辺の諸民族と取り結んだ関係と、それによってできあがった国際秩序を冊封体制という。これは歴史学上の用語で、提唱したのは西嶋定生氏であるので、彼の定義を見てみよう。
(引用)中国の皇帝が周辺諸国の首長を冊封して、これに王・侯の爵位を授け、その国を外藩国として統属させる体制を私は冊封体制と呼んでいる。冊封という形式は、本来は国内の王・侯に対する爵位授与を意味するものであるが、その形式が周辺諸国に対する中国王朝の統属形式に用いられたのである。そしてこの冊封体制を基軸として、周辺諸国と中国との政治的・文化的関係が形成され、そこに東アジア世界が出現すると考えるのである。<西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫版>

冊封体制の実際

 具体的には、漢帝国の初期に、国内では郡国制をしき、朝鮮と南越をそれぞれ王と認めてたことに始まる。その後、漢の武帝は、朝鮮と南越に郡県制をしき、直轄領としたので、冊封体制は一時消滅したが、その後、儒教が国教化されると、周辺の夷狄(異民族)に対して中国の王道を及ぼすという中華思想、王化思想が強まり、高句麗との冊封関係が復活し、三韓諸国、倭国などもそれに組み込まれた。魏晋南北朝時代には、中国の王朝が分裂弱体化したが、高句麗・百済・新羅・日本などが成長し、いずれかの王朝と冊封関係を結ぶことで、東アジア世界は一体となって展開することとなる。これら冊封を受けた国々では、中国の皇帝から国王以下の諸官職をあたえられ、皇帝の世界支配に服するので、元号も中国のものを用いることが強制される。
邪馬台国と倭の五王 倭人が作ったと思われる倭国、3世紀の魏に遣使した邪馬台国卑弥呼(魏から親魏倭王の称号を与えられた)、5世紀の大和政権に属する倭の五王が次々と南朝のに遣使し、それぞれ倭国王の国号と朝鮮半島における軍事権の行使を認められているが、これが冊封関係である。 

隋唐の国際関係

 魏晋南北朝の分裂時代を終わらせ中国を統一したは30数年で崩壊したが、それに続いた唐帝国は、広大な領土を直接支配すると共に周辺諸民族・諸国家に対する優越的な宗主権を有し、「世界帝国」の一例と考えられている。ただし、隋唐の王朝と東アジア諸国の関係は、冊封関係だけではなく、特に北方民族に対しては羈縻政策もとられており、そのどちらを本質的ととらえるか学説が異なっている。実際には多彩な方式がとられたことに注意しよう。
日本と隋唐の関係 なお、日本の聖徳太子以来の遣隋使、奈良時代の遣唐使は、いずれも隋・唐の皇帝に朝貢しているが、皇帝からなんらかの地位を与えられる冊封関係ではない。冊封体制に入れば、年号も中国のものを使用するが、日本では大化改新での「大化」以来、独自の年号を使用している。つまり、親魏倭王の邪馬台国や、倭の五王までは冊封体制下にあったが、7世紀以降はそこから脱し、朝貢関係のみを維持したと言える。

明代の冊封体制

 14世紀にを建国した洪武帝は、国内で皇帝専制支配を復活させ、対外政策では「中華思想」にもとづく朝貢貿易の形態を採り、民間人の渡航は厳しく制限する海禁を打ち出した。その背景には倭寇の広範な活動があり、それを抑える目的があった。明の全盛期となった永楽帝は、勘合貿易による貿易統制を強め、に日本の室町幕府の将軍足利義満を「日本国王」に封じた。これは冊封体制の一時的な復活と見ることも出来る。
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書籍案内

西嶋定生『秦漢帝国』
1997 講談社学術文庫