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班超

後漢の武将。西域都護として西域経営にあたった。部下の甘英をさらに西方に派遣した。

班超

班超(32~102)

 後漢の武将。匈奴の討伐に活躍して91年にの和帝から西域都護に任じられ、西域経営に当たった。
 班超は『漢書』の著作者として知られる班固の弟。まず明帝の時、73年に北匈奴の討伐に向かった将軍竇固(とうこ)の部下として出征し、西域方面に派遣された。当時は、北匈奴が西域諸国に圧力をかけ服属させようとしていたので、それから離反させることが使命だった。

西域諸国を服属させる

 73年、まず、タリム盆地の東の端にあった鄯善に赴き、たまたまそこに来合わせた北匈奴の使者をわずか36名の手兵で夜襲して皆殺しにし、それによって鄯善を後漢に服属させた。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と言ったのはこの時である。同じ年、班超は于闐(ホータン)に行き、王を脅迫してそこにいた北匈奴の使者を殺させ、同じく後漢に服属させた。これによってタリム盆地の南側の諸国はいずれも後漢に服属することになった。
 さらに天山南路で北匈奴に服していた亀茲(クチャ)王がその西方の疏勒(カシュガル)に勢力を伸ばして王を交代させていたので、まずそちらに赴き、もとの王を復活させて後漢に帰服させた。

西域諸国経営

 しかし、その後再び西域諸国が離反したため疏勒にいた班超は孤立し、苦戦に陥ったが大月氏国の支援を得て危機を脱した。その後、北匈奴は後漢による攻撃に加えて北方の丁零と東方の鮮卑の攻撃を受けて弱体化した。代わってかつては協力的だった大月氏(このころから中国史料で貴霜として出てくるクシャーナ朝となっている)が今度はパミールを越えて疏勒の班超を攻撃してきた。大月氏軍に包囲された班超は、大月氏軍の遠征軍が食糧難に陥ることを見越して籠城作戦を採った。その見通し通り、大月氏軍は食糧不足のため間もなく撤退し、以後は大月氏は漢に朝貢することになった。

西域都護となる

 後漢王朝は91年西域都護を復活させ、班超を任命した。これを機に班超は西域経営の拠点を疏勒から亀茲に移した。このころ、大月氏国(クシャーナ朝)に続いて、さらにその西にある安息国パルティア)も後漢に朝貢するようになり、その使節から、安息国の西に大秦という国があって安息国とも通称していることを知り、大秦国と直接通交しようと考え、部下の甘英を派遣することとした。

甘英を大秦国に派遣

 97年、甘英は大秦を目指して出発、安息国を経て条支国(シリアか)に達し、そこから大海を渡り大秦国の達しようとした。しかし、安息国の西のはずれの船人たちから、順風でも三ヶ月、風がなければ2年はかかると聞かされ、甘英は渡航を断念し、引き返した。
 甘英の派遣は目的を達することはできなかったが、班超はさらに西域都護として留まり、102年に71歳となってようやく洛陽に帰った。班超は31年にわたって西域に留まり、西域諸国50ヵ国以上を後漢に帰属させたといわれている。

Episode 虎穴に入らずんば虎児を得ず

 班超の成功のきっかけとなったのは、西域諸国の一つ鄯善(ぜんぜん)に派遣されたときのことである。そのとき匈奴の使者もやってきて鉢合わせとなった。匈奴の使者は総勢百人を超え、班超の部下は36人に過ぎなかったが、班超は部下を激励して匈奴の使者の宿舎を焼き払い全滅させた。震え上がった鄯善の王は後漢に忠誠を誓い、以来、班超の勇名は西域全土に広がったという。このとき班超が部下を激励した言葉が「虎穴に入らずんば虎児を得ず」であった。<井波律子『奇人と異才の中国史』岩波新書 2005 p.27>