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屯田制

後漢末の騒乱のなか、華北を抑えた曹操が採用した、流民・兵士に田地を与えて耕作させ、生産物を地代としてとる土地政策。三国時代の魏の国力の基盤となった。

 後漢末の華北の群雄の一人として台頭した曹操が、196年、戦乱で荒廃した土地を収め、流民を募って集団で入植させ、耕作にあたらせた上で現物で租税を納めさせた。この方式はの建国後も継続され、その国力の基礎となった。
軍屯と民屯 兵士を辺境に入植・耕作させ、平時には自給自足しながら、戦時には軍隊として編成する方式は軍屯という。そのような兵士に田地を与えて兵戸とし、同時に防備に充てようとする軍屯は、漢代にも採られたが、大規模に展開されたのは魏の時代であり、前線の基地でよく用いられた。さらに魏の時代には、入植させた農民に農具や牛を貸与し、そのかわりに収穫の半分以上を上納させるという小作方式(これを民屯という)も採用され、そこから上がる租税収入は国家財政の大きな部分を占めた。

屯田制採用の理由

 後漢末、華北の主導権をめぐって袁紹らと争っていた曹操は、196年に、洛陽を追われて脱出した後漢の献帝を許(河北省許昌市)に迎えた。そのことによって皇帝を保護しているという大義名分を得て、華北における主導権を獲得した曹操は、軍備を整えるために、戦乱で荒廃していた支配地を復興させる必要があった。
(引用)中央の要地を領有し、名目的にもせよ後漢政府を擁している曹操の立場はもっとも困難であった。天下の中心に位置するだけに、四方を強豪に囲まれているわけで、軍備を一日もおろそかにすることはできない。しかも軍備というものは、いつの世においてももっとも金を食う非生産的なものである。しかもその土地は戦乱を経て荒れはてているし、人民は離散し、生産は減退している。これでは財源を捻出しようにも手段がないわけだ。そこで案出されたのが屯田という新政策である。これは天子みずからが豪族のやり方をまねて荘園をもつことを意味する。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.58>

屯田制の内容

 戦乱で荒廃し、無主となった土地を政府が収めて管理する田とし、そこに貧民を召集して耕作させる。地代はすこぶる重く、5割を官に納めさせる。もし政府から耕牛を借りて使用した場合は6割を納めなければならない。それでも貧民がよろこんで屯田に収容されたのは、地代は高いが現物納であって、無理に銅銭を強要されなかったためである。

参考 容易ならぬ世の中・・・

 中国史の大家宮崎市定氏は、曹操の屯田政策を次のように評している(要約)。
 曹操が強敵の袁紹を破ったのも、屯田政策の成功により、食糧が豊かだったためである。しかし、一方で曹操は、袁紹を倒したとき、それに従っていた軍隊を無慈悲にも殺害した。軍隊の投降を許し、土地を与えるには土地が少なく、たとえ与えても一度軍隊生活の味をおぼえたものを帰農させても、すぐ土地を離れてならずものになり、治安が乱れる恐れがあった。そこで勝者の権利を行使して殺してしまう方が、さっぱりする。恐ろしいやり方だが、それだけ容易ならぬ世の中になっていたのだった。<宮崎市定『同上書』p.59-60>
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書籍案内

宮崎市定
『大唐帝国―中国の中世』
1968初刊 1988中公文庫

魏晋南北朝の記述が3分の2を占める。史話満載。