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曹操

三国の魏を事実上、建国した人物。『三国志演義』の英雄の一人として劉備・孫権と覇を競った。その子の曹丕が魏を建国、三国の中でも最も優勢であった。詩人としてもすぐれていた。

曹操

曹操(155~220)

 後漢を滅亡させ、三国時代を建国した人物。後漢宦官の養子の子として生まれ、174年、20歳で「孝廉」に推挙された。孝廉とは郡・国から学問や人格に優れた人物を中央に推挙する官吏特別任用制度で前漢から行われており、中央の官界での活躍ができることとなる。彼は宦官の養子の子であったが、当時の宦官と官吏の争いでは、清流派といわれた官吏擁護派に属した。184年に黄巾の乱が起きるとその平定に参加した。189年の霊帝の死後に後漢王朝の内紛が激化、袁紹と董卓が対立すると、曹操は袁紹の配下として戦い頭角を現しはじめた。袁紹が敗れたため東方に移り、黄巾の残党を平定して、その多くを配下に収めた。

後漢の献帝を保護

 群雄相食む激戦地であった華北において、曹操の優位を決定的にしたのは、政治的に見れば、ブレーンの荀彧(じゅんいく)と程昱(ていいく)の進言を入れて、196年、後漢王朝最後の皇帝である献帝を、自らの根拠地の許(河北省許昌市)に迎えたことだった。すでに統治力を失い、名のみの皇帝であったとはいえ、曹操の側には、このときから献帝の後見人という比類ない大義名分が生じたことになる。この政治的勝利に加えて、200年、「官渡の戦い」で自軍のほぼ十倍の袁紹の大軍を奇襲作戦で破り、軍事的にも成功を収め、華北をほぼ平定した。<井波律子『三国志曼荼羅』2007 岩波現代新書 p.93>
 毛沢東も「官渡の戦い」は奇襲作戦の最も成功した例として称賛しているという。

屯田制の実施

 196年、献帝を保護して天下に命令する立場を得た曹操は、黄巾の乱、後漢末の董卓の乱で荒廃した華北の地を復興させ、安定した財源を得るために屯田制を実施した。それは、戦乱で荒廃し、無主となった土地を収めて政府の管理する田とし、そこに貧民を召集して耕作させ、5割の地代を取るというものであった。おそらくこれは後漢末に広がっていた豪族の荘園のやり方を天子の名で国がおこなうものであった。
 200年に「官渡の戦い」で袁紹軍と戦って勝ったとき、何万という降伏した軍隊を無慈悲にも殺戮した。食糧が不足しがちな乱世で、軍隊があまりに多すぎるとこまるのだ。一時帰農させても、一度軍隊生活をおぼえたものはすぐ土地を離れてならず者になり治安の害になる、という曹操の冷酷な判断だった。<宮崎市定『大唐帝国』1988 中公文庫 p.58-59>

赤壁の戦いの敗北

 ついで全国統一を目指して南下したが、208年赤壁の戦い孫権劉備の連合軍に敗れた。曹操は、官渡の戦いのような、少数で敵を攻撃する奇襲作戦は得意だったが、このときは魏軍の方が大軍を擁し、しかも他国の地での戦いで地の利がないことなど、不得手な戦争だったようだ。結局、劉備の軍師諸葛孔明の建てた劉備・孫権の連合という戦略と、孫権の配下の軍師周瑜の建てた火船を放ち曹軍の軍船を焼く作戦に敗れた。赤壁の戦いで敗れたことによって曹操の天下統一のもくろみは頓挫し、天下三分の形成へと移行した。

「蜀を望まず」

 劉備は211年に長江上流の益州(現在の四川地方)の成都に入って根拠地を作った。曹操の治める関中と劉備の治める益州の間の漢中と言われた地方には宗教集団五斗米道を始めた張陵の孫の張魯が生き残っていて宗教王国を存続させていたが、曹操は215年、漢中に出兵して張魯らを服属させた。将軍の司馬懿が一気に益州の劉備を討つことを建議したが、曹操は「既に隴を得て、また蜀を望まんや」という光武帝の言葉を引き、軍を退いた。「望蜀」とは欲張ることの意味に使われる故事となる。この話は小説『三国志演義』に見えるが、曹操はこの段階では無理して統一を強行せず、国内を治めることを優先したことが分かる。あるいは蜀が自壊すると見通していたのかもしれない。

魏王となる

 曹操は、213年には献帝から魏公の称号を与えられ、さらに216年、魏王に封じられ、黄河流域の華北を支配し、中国南部の長江流域の呉、中国西部、現在の四川省一帯の蜀と対抗した。曹操は屯田制をしいて国力増強に努め、後の魏の基礎を作った。また文学の保護者としても知られる。
 220年、その子の曹丕が後漢の献帝から帝位を譲られ、王朝を創建したときに、父曹操には太祖武皇帝の諡号が贈られた。

参考 曹操の人物像

 多くの人を引きつけている、いわゆる『三国志』の世界では、何と言っても正義は劉備玄徳にあり、その盟友の関羽張飛などの豪傑、軍師諸葛孔明たちの活躍が面白く物語られている。そこでは、曹操はいわば敵役で、奸悪な国賊扱いされることが多い。しかしこの三国志は現代に生まれた『三国志通俗演義』で作り上げられたフィクションであり、歴史書『三国志』などで伝えられている曹操は、劉備とは比べものにならない政治的能力をもち、また文学的素養の高い人物であった。
 かつての吉川英治『三国志』に親しんだ世代の曹操像は捨て去ててかからなければならないようだ。その点、最近の漫画やゲームでは、曹操は悪役ではなくヒーローとして描かれることが多くなっているそうで、曹操像も大分変わってきているようです。<この部分、代々木ゼミナール教材研究センター世界史の越田さんからご指摘を受け、改めました。>

Episode 治世の能臣、乱世の姦雄

 曹操は、若い頃から機知に富み、義侠心があり好き勝手なことをして、まじめに仕事につかなかった。鷹狩りに明け暮れて遊蕩三昧、世間の人は、誰も彼を評価しなかった。そのころ汝南(河南省)に許劭(きょしょう)という世間を避けて隠遁生活を送りながら、郷里の人物の評価が適確で評判になっている人がいた。あるとき、曹操は「私は、どういう人物とお思いか?」と許劭に尋ねた。答えにくそうにしながら彼が言ったのは
「子は治世の能臣、乱世の姦雄たり」
というものだった。貴方は平和なときには有能な臣下であり、乱世にあっては姦雄となるでしょう、という人物評は、見事に曹操の人物を言い当てた表現と言える。<富谷至『四字熟語の中国史』2012 岩波新書 p.149-150>
 曹操は後漢末のまさに乱世に、冀州(河北・山西の省界)の長官として頭角を現し、208年に丞相、さらには魏国公となり、着実に権力をに握っていった。混乱の時代を治めるべく、漢の旧制度にかわる新しい政策を次々に打ち出した。無人化した土地を国有化し、戦乱による流民を定住させ農具・耕牛を与えて農業をさせ、戸をもとにした租税制度の整備、能力主義にもとづいた人材の登用、さらには刑法を改正して魏科と呼ばれる独自の法規を制定した。『三国志』の選者である陳寿は「非常の人、超世の傑」と曹操を評価している。<富谷『前掲書』 p.152>

Episode 空っぽの器の贈り物

 正史『三国志』は、曹氏の魏の系統に連なる西晋の史官陳寿(233~297)によって書かれたので、曹操の「悪人性」については触れられていない。むしろおもしろおかしく極端化しているのは『三国志』本文に付された裴松之(はいしょうし。南朝の宋の史官)の注に見えている。千年ほど後の『三国志演義』に活写された悪人としての曹操姦雄伝説のルーツはこの裴松之の注にある。彼が集めた史料は、魏と対立していた呉で書かれたものが多かった。例えば次のような話がある。
(引用)212年、58歳になった晩年の曹操は、後漢王朝から魏公に封じられ、九錫(しゃく、功績のあった諸侯に対して天子から賜る車馬など)を受けることになった。これは、やがて近い将来、天子の位を譲り受けることを意味する儀式である。このときブレーンの荀彧は、じりじりと後漢王朝にとって代わろうとする曹操のやり方に強く反対した。この結果、不興を買った荀彧は、まもなく死に追いこまれた。この出来事は『三国志』荀彧伝の本文にも記されているが、裴松之の注に引用する『魏氏春秋』では尾ひれが付き、「曹操が荀彧に食器を送ってきたので、器を開いてみるとからっぽだった。そのため、荀彧は毒をあおって自殺した」と。中身の入っていない贈り物をして、おまえはもう無用の人間なのだと思い知らせたというのだから、なんとも陰険な話ではある。<井波律子『三国志曼荼羅』2007 岩波現代新書 p.99-100>

詩人としての曹操

 曹操は卓越した軍事家・政治家であっただけでなく、文学者としても傑出していた。彼とその子曹丕・曹植の兄弟の周辺には「建安七子」と言われる文人が集まり、一種のサロンを形成していた。建安とは後漢最後の皇帝献帝の年号(196~220)のことで、七子とは、孔融(こうゆう)・陳琳・王粲(おうさん)・徐幹・阮瑀(げんう)・王瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)をいう。必ずしも同時に活動してグループを作ったわけではないが、何らかの形で曹操の庇護を受けた文化人であった。
(引用)曹操は「軍を御すること三十余年、手より書を舎(す)てず」といわれた好学の士で、経書にも詳しかったばかりか、兵書を含む群書を渉猟し、詩筆にも長ずる博学多才ぶりであった。ことに中国の詩の歴史において、日常生活を題材とする叙情詩の先駆者であり、やがて主流となる五言詩の基礎をつくった詩人である。彼とその時代は、三千年にわたる詩の歴史のなかで、杜甫を排出した盛唐・中唐とならんで、最も輝かしい時代と言える。しかも、彼本人だけでなく、息子の曹丕(文帝)と曹植、この父子三人は「三曹」とよばれ、いわゆる建安文学の中心に位置しているのである。建安は後漢の献帝の年号であるが、実権は曹操の手中にあり、政治の紀綱は引き締まり、文学史においても生気あふれた時代であった。<寺田隆信『物語中国の歴史』1997 中公新書 p.99>

曹操の死とその墓

 曹操は220年正月、66歳で死去、魏の武王という謚を送られ、翌二月、高陵に葬られた。臨終にあたり曹操は「世の中はまだ安定したとは言えぬ。葬儀が終われば、喪に服す必要は無い。軍隊は持ち場を離れてはならぬ。遺体は特別な服でなく、その時節のものにし、金玉・珍宝を副葬する必要なない」と命じた。高陵は河南省鄴県(現在の安陽市)に作られた。
 2008年12月、安陽市の西北15kmの遺跡から後漢三国時代の墳墓が発掘された。その二号墓が曹操その人の墓である可能性が高いことが判り、世界中の人々を驚かせた。二号墓は墓道・前室・後室・側室からなり、墓坑・墓道を含めた墓全体は736平方km、最深部は地表から15mである。この墓が曹操の高陵であると考えられるのは次の理由からである。
  1. 年代が後漢後期で、曹操の時代と一致する。
  2. 同じ時期の墳墓に比較してはるかに大きく、相当な位の人物の墓と考えられる。
  3. 曹操の墓葬に関する記事と位置が一致する。
  4. 墓の中の人骨男性一体の死亡推定年齢が60歳であり、曹操の死亡年齢と合致する。
  5. 出土品の中に「魏武王」という曹操の謚を記した石碑や石枕がある。
以上、現在の中国ではこの墓が曹操の高陵であることは確実視されている。ただし、富谷至氏は前掲書で、「魏武王」の石碑や石枕が副葬されていることは本人の墓との証拠にはならない、曹操以外の人物が曹操の「虎の威を借りて」魔除けのためだった可能性もある、としている。<富谷『前掲書』 p.156-161>
 → 参考 AFPbb News 曹操の墓出土の文化財、日本で公開
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書籍案内

富谷至
『四字熟語の中国史』
2012 岩波新書

井波律子
『三国志曼荼羅』
2007 岩波現代文庫

寺田隆信
『物語中国の歴史』
1997 中公新書

愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター編
『曹操高陵の発見とその意義―三国志 魏の世界―』
2011 汲古書院