魏
三国時代、曹操が魏王となった後、220年にその子曹丕(文帝)が建国。九品中正などを施行。邪馬台国女王に親魏倭王の称号を与える。249年に司馬氏に実権を奪われ、司馬氏は265年に晋を建国。
三国時代の魏は、220~265年、洛陽を都として華北一帯を支配した。後漢末の曹操が、献帝を擁して実権を握り、213年魏公、216年魏王となる。220年、曹操の子の曹丕が献帝に譲位を迫り、禅譲の形式で皇帝となった。それが魏の文帝である。
司馬懿 魏は文帝(曹丕)の死(226年)の後、第2代の明帝の次にその子芳が立ったが幼少であったため、大将軍の曹爽と太尉司馬懿の二人が補佐した。司馬懿(仲達)は曹丕の腹心で、特に蜀の諸葛孔明の好敵手として『三国志演義』では敵役として活躍する。蜀を倒す上で大きな功績を立て、次に238年には遼東の公孫淵を討ち、魏の満洲・朝鮮半島への領土拡大を実現した。曹爽は権力の独占を図り司馬懿を引退させると、249年に司馬懿がクーデタを起こし、曹爽らを殺害、実権を握った。魏王朝の皇帝は幼帝が続き、しかも漢王朝の劉氏のような一族を優遇していなかったので、曹氏の中に実力者が育たず、官僚に支持された司馬氏の実質的権力樹立は容易だった。
司馬昭 司馬懿の後、その子司馬師、その弟司馬昭と続けて大臣となった。司馬昭は263年に蜀を滅ぼして、魏皇帝から晋王に封じられた。司馬昭は帝位を譲られる寸前まで行ったが、265年に急死、その子の司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて晋(西晋)を建国した。
清談 このような司馬氏による帝位簒奪を快く思わなかった魏の知識人のなかには、政争を避け、詩文の創作などにむかった人々がいた。彼ら風流を好む生き方は清談と言われ、後に阮籍などが竹林の七賢といわれるようになる。その一人、嵆康(けいこう)は司馬氏のもとでの仕官を断り、司馬昭によって殺害されている。
屯田制と九品中正
魏では曹操の始めた屯田制、曹丕が始めた九品中正制が重要で、後の王朝にも継承された。屯田制は、後漢末の戦乱で荒廃した華北の生産力を回復するために失業者に政府の土地を耕作させ、その生産物を国が租税として徴収しようというものであり、九品中正制は人材登用の基準を整備して漢の官僚制を魏の官僚制に組み込むためのものであった。いずれも魏王朝に始まったが、短命だった魏王朝のもとでは未完成に終わり、晋王朝と次の南朝、北朝でそれぞれ形をかえながら、随唐の律令体制という貴族政社会を生み出していくこととなる。<宮崎市定『九品官人法』1997 中公文庫 p.26-32>魏と東アジア世界
また魏は、三国の中でもっとも東に位置していたので3世紀の東アジア情勢に大きな影響を与えた。まず、遼東の公孫氏や朝鮮半島の高句麗と戦い、その支配は帯方郡に及んだ。そのため、朝鮮半島のさらに東に位置する日本にも関心が高く、239年に邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に使者を送ると、親魏倭王の称号を与え冊封体制に組み込んだ。司馬氏の権力掌握過程
曹操が建国した魏王朝が、わずか数代で司馬氏に実権を奪われ、晋王朝に代わっていく過程は高校教科書ではまず触れられていないので、わかりずらいことのひとつである。いきなり司馬炎が出て来るが、その祖父の司馬懿、父の司馬昭に遡る長い権力奪取の過程があったことをまず抑えておこう。司馬懿 魏は文帝(曹丕)の死(226年)の後、第2代の明帝の次にその子芳が立ったが幼少であったため、大将軍の曹爽と太尉司馬懿の二人が補佐した。司馬懿(仲達)は曹丕の腹心で、特に蜀の諸葛孔明の好敵手として『三国志演義』では敵役として活躍する。蜀を倒す上で大きな功績を立て、次に238年には遼東の公孫淵を討ち、魏の満洲・朝鮮半島への領土拡大を実現した。曹爽は権力の独占を図り司馬懿を引退させると、249年に司馬懿がクーデタを起こし、曹爽らを殺害、実権を握った。魏王朝の皇帝は幼帝が続き、しかも漢王朝の劉氏のような一族を優遇していなかったので、曹氏の中に実力者が育たず、官僚に支持された司馬氏の実質的権力樹立は容易だった。
司馬昭 司馬懿の後、その子司馬師、その弟司馬昭と続けて大臣となった。司馬昭は263年に蜀を滅ぼして、魏皇帝から晋王に封じられた。司馬昭は帝位を譲られる寸前まで行ったが、265年に急死、その子の司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて晋(西晋)を建国した。
清談 このような司馬氏による帝位簒奪を快く思わなかった魏の知識人のなかには、政争を避け、詩文の創作などにむかった人々がいた。彼ら風流を好む生き方は清談と言われ、後に阮籍などが竹林の七賢といわれるようになる。その一人、嵆康(けいこう)は司馬氏のもとでの仕官を断り、司馬昭によって殺害されている。
参考 司馬氏の権力掌握の意味
司馬氏の権力奪取の意味については、次の説明が分かりやすい。(引用)曹操政権のなによりの特色は、軍人よりも文官(シビリアン)を優遇したことであり、上層を占める文官の大多数は、いうまでもなく清流派知識人(引用者注、後漢時代に宦官と対立した官僚、つまり党人派で多くは党錮の禁で弾圧された)だった。こうして清流派すなわち後漢末抵抗派知識人から、文官重視の曹操政権の重鎮となった人々およびその子孫が、そのまま魏王朝の政治機構の中枢を占めつづけることになる。
魏王朝の中核的な存在となりながら、依然として彼らの間には、後漢を滅ぼして成立した曹氏王朝に対する根深い違和感が、くすぶりつづけていた。そんななかで、清流派の出身者にはめずらしく、軍事的才能に恵まれ実戦経験も豊富な司馬懿が、正始十年(4月、嘉平と改元=249年)、クーデタをおこし実権を掌握したのだから、あとの成り行きは火を見るより明らかだった。魏王朝の高官たちは、三代四人の司馬氏一族が謀略の限りを尽くして、曹氏の魏王朝を滅ぼしてゆく過程を平然と見過ごした。それどころか、彼らの多くは司馬氏の簒奪劇の共犯者となったのである。<井波律子『三国志曼荼羅』2007 岩波現代新書 p.62-63>