法難/廃仏
国家による仏教弾圧。廃仏とも言う。北魏や唐でたびたび行われ、あわせて「三武一宗の法難」などという。
中国の5~10世紀、北魏や唐などで行われた仏教弾圧のこと。主として対抗していた道教側からの働きかけと、仏教寺院の建設などに伴う財政負担が大きくなった場合に行われた。弾圧する側からは「廃仏」(または排仏、破仏)といい、弾圧された仏教側では「法難」と言う。主な仏教弾圧を「三武一宗の法難」という。
仏教弾圧の実際 445年、太武帝が北涼遠征に言った際、僧侶の腐敗を目の当たりにしたことが直接の原因だった。長安の寺院に入ると、僧侶たちは太武帝の従者に酒を振るまって接待した。ある従者が僧侶の私室に入るとそこに大量の武器が保管されているのを見つけた。他の寺院からは醸造用の道具や大量の財宝がみつかり、地下の隠し部屋では貴族の婦女子と僧侶が淫乱な行為に及んでいたことも露見した。
僧侶の不法行為に怒りを覚えた太武帝に、この機を逃さず廃仏を断行すべしと言う崔浩の進言があったので、446年に「廃仏の詔」が出された。その内容は、長安の僧侶を処刑し、仏像を焼くというもので、さらに全国に布令を出し、僧侶を匿っているものは役所に送り出すこと、もし期限を切っても届けがなかったら、僧侶は死刑、匿った家は一族を処刑という厳しいものだった。447年には、全国の仏像・仏典の廃棄、僧侶の穴埋めなどより厳しい布令が出された。木造の仏塔はこの時尽く破壊された。<松下憲一『中華を生んだ遊牧民-鮮卑拓跋の歴史』2023 講談社選書メチエ p.86-88>
そのため、452年に太武帝が死んで次の文成帝の時に仏教復興の詔が出された。文成帝の時に雲崗の石窟寺院が建造された。さらに孝文帝の洛陽遷都後は仏教は再び隆盛する。その後も仏教と儒教・道教の対立は続き、たびたび弾圧を受けている。
注意 教科書の説明だけだと、北魏では太武帝が仏教を弾圧しているのに、一方で雲崗の石窟寺院が造られて仏教も盛んだったと説明され、理解に苦しむことになる。答えは簡単で、仏教弾圧は太武帝の時だけのことで、452年のその死後に、新皇帝のもとで仏教復興に転換し、雲崗の石窟寺院の建造が始まるのです。
北魏の仏教弾圧
北魏の太武帝の漢人宰相崔浩は、道教の指導者寇謙之とともに、帝を道教信者にし、道教は442年には北魏の国教に定められた。さらに446年、太武帝は崔浩・寇謙之の意見に従い、仏教に対する大弾圧を行った。直接の動機は太武帝の北涼遠征の際、仏教寺院に武器や酒が秘匿されているのを見て、沙門(僧侶)の皆殺しと、寺院、仏像、経典の焼却を命じたものであるが、崔浩のねらいは、インド渡来で北方民族に信者の多い仏教ではなく、漢民族の古来の信仰である道教を保護することによって漢民族統治に役立て、政治理念としては儒教の理念を復興させることにあった。仏教弾圧の実際 445年、太武帝が北涼遠征に言った際、僧侶の腐敗を目の当たりにしたことが直接の原因だった。長安の寺院に入ると、僧侶たちは太武帝の従者に酒を振るまって接待した。ある従者が僧侶の私室に入るとそこに大量の武器が保管されているのを見つけた。他の寺院からは醸造用の道具や大量の財宝がみつかり、地下の隠し部屋では貴族の婦女子と僧侶が淫乱な行為に及んでいたことも露見した。
僧侶の不法行為に怒りを覚えた太武帝に、この機を逃さず廃仏を断行すべしと言う崔浩の進言があったので、446年に「廃仏の詔」が出された。その内容は、長安の僧侶を処刑し、仏像を焼くというもので、さらに全国に布令を出し、僧侶を匿っているものは役所に送り出すこと、もし期限を切っても届けがなかったら、僧侶は死刑、匿った家は一族を処刑という厳しいものだった。447年には、全国の仏像・仏典の廃棄、僧侶の穴埋めなどより厳しい布令が出された。木造の仏塔はこの時尽く破壊された。<松下憲一『中華を生んだ遊牧民-鮮卑拓跋の歴史』2023 講談社選書メチエ p.86-88>
北魏の仏教の復興
しかし崔浩が「国史事件」(北魏建国の歴史編纂を命じられた崔浩が、北魏王朝が鮮卑族出身であることをそのまま書いたため、太武帝の怒りを買い処刑された事件)で失脚し、寇謙之が死んでからは、宮廷内の貴族に仏教信仰が復活していく。そのため、452年に太武帝が死んで次の文成帝の時に仏教復興の詔が出された。文成帝の時に雲崗の石窟寺院が建造された。さらに孝文帝の洛陽遷都後は仏教は再び隆盛する。その後も仏教と儒教・道教の対立は続き、たびたび弾圧を受けている。
注意 教科書の説明だけだと、北魏では太武帝が仏教を弾圧しているのに、一方で雲崗の石窟寺院が造られて仏教も盛んだったと説明され、理解に苦しむことになる。答えは簡単で、仏教弾圧は太武帝の時だけのことで、452年のその死後に、新皇帝のもとで仏教復興に転換し、雲崗の石窟寺院の建造が始まるのです。