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法難/廃仏

国家による仏教弾圧。廃仏とも言う。北魏や唐でたびたび行われ、あわせて「三武一宗の法難」などという。

 中国の5~10世紀、北魏や唐などで行われた仏教弾圧のこと。主として対抗していた道教側からの働きかけと、仏教寺院の建設などに伴う財政負担が大きくなった場合に行われた。弾圧する側からは「廃仏」(または排仏、破仏)といい、弾圧された仏教側では「法難」と言う。主な仏教弾圧を「三武一宗の法難」という。

北魏の仏教弾圧とその転換

 北魏太武帝の漢人宰相崔浩は、道教の指導者寇謙之とともに、帝を道教信者にし、道教は442年には北魏の国教に定められた。さらに446年、太武帝は崔浩・寇謙之の意見に従い、仏教に対する大弾圧を行った。直接の動機は太武帝の北涼遠征の際、仏教寺院に武器や酒が秘匿されているのを見て、沙門(僧侶)の皆殺しと、寺院、仏像、経典の焼却を命じたものであるが、崔浩のねらいは、インド渡来で北方民族に信者の多い仏教ではなく、漢民族の古来の信仰である道教を保護することによって漢民族統治に役立て、政治理念としては儒教の理念を復興させることにあった。しかし崔浩が「国史事件」(北魏建国の歴史編纂を命じられた崔浩が、北魏王朝が鮮卑族出身であることをそのまま書いたため、太武帝の怒りを買い処刑された事件)で失脚し、寇謙之が死んでからは、宮廷内の貴族に仏教信仰が復活し、次の文成帝の時に仏教復興の詔が出された。文成帝の時に雲崗の石窟寺院が建造された。さらに孝文帝の洛陽遷都後は仏教は再び隆盛する。その後も仏教と儒教・道教の対立は続き、たびたび弾圧を受けている。
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書籍案内

鎌田茂雄
『仏教の来た道』
講談社学術文庫 1995