太武帝
北魏の皇帝で439年に華北の統一を達成し、支配を西域にのばした。道教を保護し仏教を弾圧した。
太武帝は北魏の第3代皇帝(在位423~452年)。強力な鮮卑系武力を有し、さらに漢人官僚の力も取り入れて強力な国家を作り、424年から439年にかけて、華北を統一し、五胡十六国の分裂期を終わらせた。西域を平定したことで東西交易が再開され、仏教など西方の文化が盛んに華北にもたらされたが、太武帝は中国古来の道教を保護し、外来の仏教を弾圧した。その統治の内部では鮮卑系と漢人系の対立、宦官の進出などの問題も起こり、最後は太武帝自身も宦官に殺された。
439年、北涼が北魏に滅ぼされたことによって五胡十六国は終わり、華北全体が統一された。さらに柔然などの中央アジアの遊牧民も北魏に従属し、華北から中央アジアにかけての北魏帝国を建設した。特に西域が北魏によって支配されたことにより、五胡十六国の動乱で一時衰えていたシルクロードの東西交易が再び活発になり、西域を経てササン朝の文化や、インドから多くの僧侶が盛んに中国に渡来するようになった。
太武帝は中国統一を目指し、450年には自ら大軍を率いて南朝宋の建康に迫ったが、揚子江北岸に到達したところで引き返し、その課題は達成することはできなかった。
ところが、崔浩の書いた国史ではこの民族の未開な時代の野蛮な事実をそのまま記してあったことを鮮卑人の高官が問題にして太武帝に訴えた。太武帝は、崔浩が南の東晋への遠征には強く反対していたことを思い出し、崔浩の本心は南の漢人王朝にあり、北の鮮卑王朝をひそかに軽蔑しているのではないか、と疑った。これは北魏朝廷を揺るがす大問題となり、結局450年、あれだけはぶりのよかった崔浩だったが大罪人と断罪され、一族全部が殺され、連座するものも多数にのぼった。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.229-230>
晩年の太武帝は政治に倦み、宮廷には宦官が力を増していった。宦官の宗愛は皇太子を讒言してわが身を守ろうとしたが、それがウソだったことが発覚することを恐れ、宮廷で密かに太武帝を殺してしまった。宗愛は皇太子を立てたが、さすがに宦官の横暴を排除する動きがおきて、近衛兵が宗愛を捕らえて処刑した。密室の中でこのような非行が繰り返されていた。<宮崎市定『同上書』p.230,232>
この話を宮崎市定は「北魏王朝はその強さの裏に、このようなもろさがあった。軍事国家はえてしてこういうものである」<p.232>と締めくくっている。たしかに軍事優先をとなえる国家が、その強さとうらはらなおぞましい殺戮が政権内部で行われるという例はその後も続いている。
華北の統一
まず、陝西地方に匈奴の赫連氏が建てた夏国を滅ぼし、また中国北部の北燕を討ち、さらに匈奴が涼州(敦煌)に建てた北涼も滅ぼした。黄河上流の青海地方にいた吐谷渾からは寧夏地方を奪った。439年、北涼が北魏に滅ぼされたことによって五胡十六国は終わり、華北全体が統一された。さらに柔然などの中央アジアの遊牧民も北魏に従属し、華北から中央アジアにかけての北魏帝国を建設した。特に西域が北魏によって支配されたことにより、五胡十六国の動乱で一時衰えていたシルクロードの東西交易が再び活発になり、西域を経てササン朝の文化や、インドから多くの僧侶が盛んに中国に渡来するようになった。
太武帝は中国統一を目指し、450年には自ら大軍を率いて南朝宋の建康に迫ったが、揚子江北岸に到達したところで引き返し、その課題は達成することはできなかった。
道教国教化と仏教弾圧
太武帝の華北統一の過程で西域諸国を平定したとき、北涼にいた僧侶3千人が捕虜となって平城に連行され、それによって仏教が華北で盛んになるきっかけとなった。しかし太武帝は崔浩など漢人官僚の進言があって、道教の道士寇謙之に心酔し、彼が従来の道教に儒教の要素を採り入れて体系化した新天師道を信仰するようになった。太武帝は、442年に道教を国家として定め、その教理に基づいて、年号を「太平真君」としたり、天に届かせようとして巨大な唐をつくるなど、のめり込んだ。さらに、446年には、廃仏、つまり仏教に対する大弾圧を行った。Episode 北魏の国史事件
また太武帝は北方部族の軍隊を主力としたが、官人には漢人を登用し、その融和をはかった。漢人官僚のなかで太武帝がもっとも信頼したのが崔浩という人物で、太武帝の北方民族に対する積極策を盛んに進言した。崔浩は北魏朝廷のあらゆる内政、とくに文化政策の責任者となり律令や暦の制定にあたり、さらに魏王朝の歴史を国史として編纂した。ところが、崔浩の書いた国史ではこの民族の未開な時代の野蛮な事実をそのまま記してあったことを鮮卑人の高官が問題にして太武帝に訴えた。太武帝は、崔浩が南の東晋への遠征には強く反対していたことを思い出し、崔浩の本心は南の漢人王朝にあり、北の鮮卑王朝をひそかに軽蔑しているのではないか、と疑った。これは北魏朝廷を揺るがす大問題となり、結局450年、あれだけはぶりのよかった崔浩だったが大罪人と断罪され、一族全部が殺され、連座するものも多数にのぼった。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.229-230>
Episode 皇帝、宦官に殺される
北魏の太武帝は、華北の統一を成し遂げた皇帝であったが、仏教弾圧や国史事件などの後の晩年の政治は誉められたものではなかった。その直後、450年に大々的な北魏軍の南征が行われた。そのころの南朝の宋は、文帝のもとで安定した政治が行われ、国力も充実していたので、国をあげての防衛態勢がとられた。宋の要塞は堅く抜くことができないので、北魏軍はその間を通りぬけるだけで、その過ぎた後は焼け跡のように何も残らず、翌春にツバメが帰っても巣を作る家がなく、カラスのように木の梢に巣を作ったという。晩年の太武帝は政治に倦み、宮廷には宦官が力を増していった。宦官の宗愛は皇太子を讒言してわが身を守ろうとしたが、それがウソだったことが発覚することを恐れ、宮廷で密かに太武帝を殺してしまった。宗愛は皇太子を立てたが、さすがに宦官の横暴を排除する動きがおきて、近衛兵が宗愛を捕らえて処刑した。密室の中でこのような非行が繰り返されていた。<宮崎市定『同上書』p.230,232>
この話を宮崎市定は「北魏王朝はその強さの裏に、このようなもろさがあった。軍事国家はえてしてこういうものである」<p.232>と締めくくっている。たしかに軍事優先をとなえる国家が、その強さとうらはらなおぞましい殺戮が政権内部で行われるという例はその後も続いている。