三武一宗の法難
中国仏教史上の北魏から唐、五代に及ぶ、北魏の太武帝・北周の武帝・唐の武宗・後周の世宗の4度に及んだ仏教弾圧を言う。
「三武一宗(さんぶいっそう)」とは、次にあげる四人の皇帝号から来ており、法難とも廃仏ともいわれる仏教弾圧のことである。仏教は中国では外来宗教であったため、その受容をめぐって、儒教・道教など中国固有の宗教との対立が生じることがあり、中国王朝では、たびたび弾圧が行われたが、その中で特に次の四回の仏教弾圧事件をまとめて「三武一宗の法難」という。その四回とは、446年の北魏の太武帝による弾圧、574年と575年の北周の武帝による弾圧、845年の唐の武宗による弾圧、955年の後周の世宗の弾圧である。三人の「武」の付く皇帝と、一人の「宗」の付く皇帝の時に起こったので、総称して「三武一宗」というわけである。
道教の保護 それに対して、道教は神仙思想と結びついて漢人の一般民衆の中に深く浸透していた。道教の指導者寇謙之は、太武帝に仕え、北魏の宮廷の中に道教の影響が強まり、太武帝はその意見に従って、道教による思想統一をはかるため、仏教の弾圧に乗り出した。崔浩などの太武帝の宮廷の官僚となっていた漢人貴族は、儒教の立場から、仏教弾圧に賛成した。こうして446年、中国での最初の廃仏が行われた。この仏教弾圧は仏教側からは「法難」といわれ、中国仏教にとって最初の試練であった。この時、首都平城の仏教寺院の多くは焼かれてしまった。
しかし、太武帝の死後、次の第4代文成帝は、仏教弾圧を止め、むしろ仏教保護に転じ、首都平城の郊外雲崗に巨大な岩窟寺院の建設を開始した。
北魏・太武帝の仏教弾圧
北魏は鮮卑の拓跋氏が立てた王朝であり、太武帝の時に華北を統一したものの、漢民族を統治するための精神的な柱が求められることとなった。すでに仏教は、五胡十六国の時代に、西域僧仏図澄、インド僧鳩摩羅什が活動し、華北に広まってきたいた。五胡と称される北方民族にとって、仏教は受け入れやすかったものと思われる。この時代に漢人のなかにも道安や慧遠など優れた僧侶が現れ、中国仏教が成立し始めていた。道教の保護 それに対して、道教は神仙思想と結びついて漢人の一般民衆の中に深く浸透していた。道教の指導者寇謙之は、太武帝に仕え、北魏の宮廷の中に道教の影響が強まり、太武帝はその意見に従って、道教による思想統一をはかるため、仏教の弾圧に乗り出した。崔浩などの太武帝の宮廷の官僚となっていた漢人貴族は、儒教の立場から、仏教弾圧に賛成した。こうして446年、中国での最初の廃仏が行われた。この仏教弾圧は仏教側からは「法難」といわれ、中国仏教にとって最初の試練であった。この時、首都平城の仏教寺院の多くは焼かれてしまった。
しかし、太武帝の死後、次の第4代文成帝は、仏教弾圧を止め、むしろ仏教保護に転じ、首都平城の郊外雲崗に巨大な岩窟寺院の建設を開始した。
唐・武宗の会昌の廃仏
845年、唐の武宗が行った廃仏は会昌の廃仏といわれ、三武一宗の法難の中でもっとも規模が大きく、影響力が大きかった仏教弾圧事件である。これは、道教を信仰して不老長寿の薬を求めるなどに熱心だった武宗が、道士らの建議によって仏教を排除しようとたもので、多くの仏教寺院が廃寺とされ、僧尼が還俗さえられた。その経緯は、おりから長安を訪れていた日本の円仁の記録『入唐求法巡礼行記』に詳しく書かれている。廃仏には、王朝が過度に仏教を保護し、造寺などで出費が増えてしまったこと、また寺院・僧尼は課税されない特権があったことなどに対する反動から、荘園その他の寺領を収公し、還俗した僧尼に唐の課税である両税法を適用し、税収を上げようとした側面もあった。参考 「三武一宗の法難」は古い?
最近は、教科書レベルでは「三武一宗の法難」という語句を見かけることがなくなった。山川出版社の世界史用語集からも姿を消している。中国の王朝による仏教弾圧を「三武一宗の法難」と表現するのはどうやら古くさい言い方ですたれたようだ。すでに早く、戦前の日本に生まれ(お父さんが明治学院縁の宣教師だった)で、戦後のケネディー時代の駐日大使となったエドウィン=ライシャワー博士の名著『円仁 唐代中国への旅』(初刊1955)では「仏教弾圧」の章の冒頭で次のように言っている。(引用)中国人は分類することが好きだから、中国における四つの大きな仏教弾圧を語る場合、“三武一宗”の弾圧と呼び慣わしている。これらは同じ武宗という謚(おくりな)で知られる三人の皇帝と世宗と呼ばれる一人の皇帝の許で行われた仏教弾圧をいうのである。……
しかし、このように仏教弾圧の歴史を一覧表にすることは、分類の誤ちの最たるものである。というのは、他の数人の中国皇帝も仏教に対して圧力を加えたのであり、それらは、ある場合には、四つの“大”弾圧が引き起こしたと同じように、厳しい影響を後世に及ぼす打撃を与えたからである。さらに、円仁が長安にいた頃、845年に最高潮に達した弾圧は、規模において他の三者よりもはるかに大きかったので、それらを一緒くたにして呼ぶことは、一方を過小評価するか、他方を過大評価するかのいずれかにならざるを得ない。
唐の弾圧は全中国に及んだが、他の三者はわずかに華北に留まっているか、あるいは華北の中でも圧力を加えた皇帝の直接支配下にあった部分にのみ及んだのである。845年の弾圧は、永く仏教を偏頗なものにしてしまし、そして、実質的に、当時中国に存在した他のすべての外国宗教を一掃してしまったのである。それに比べると、他の三つの弾圧は持続的な影響を持たなかったのである。言い換えれば、これらの他の弾圧は、単に永い仏教の歴史の多くの事件の中の三つに過ぎないのである。しかしながら、845年、唐の行った弾圧は、中国宗教史上、最も重要な日付の一つとなったのである。<E.ライシャワー/田村完誓訳『円仁 唐代中国への旅』1963初刊 1999講談社学術文庫刊 p.335-390>