雲崗
5世紀後半、北魏の都平城近郊につくられた石窟寺院。太武帝の仏教弾圧が452年のその史によって終わり、次の文成帝が仏教興隆の詔を出したことで、460年に始まる。中国仏教の最大の遺構として世界遺産に登録。孝文帝は都を洛陽に移し、別に竜門石窟を造営する。
雲崗石窟 GoogleMap
北魏の仏教興隆
北魏では太武帝の廃仏が行われたが、452年のその死後、次の文成帝が仏教を復興させ、僧曇曜を総監督に任じ、460年に雲崗の石窟寺院の開削が始まり、494年の孝文帝の洛陽遷都までの間、建造が行われた。中国仏教の隆盛によって産み出された仏教美術の最大の遺産であり、インドのガンダーラ美術・グプタ様式美術の影響も見られ貴重である。
北魏の都が洛陽に移されると、新たにその郊外に竜門の石窟寺院が造営されるが、雲崗のようなインドの影響は薄まり、中国独自の様式が見られるようになる。
Episode 馬は善人を知る
雲崗の石窟寺院の造営事業は自ら熱心な仏教徒であった北魏の文成帝(440~465)によって推進された。仏教復興事業を牽引したのは、北魏によって滅ぼされた北涼の僧、曇曜(どんよう)であった。文成帝と曇曜の出会いは、たまたま帝が馬に乗っていたとき、曇曜とでくわした。そのとき帝の馬がすすんで曇曜の法衣を口にくわえたことがきっかけだった。このエピソードは忽ち有名になり、「馬は善人を知る」とほめたたえられた。曇曜は、故国北涼にちかい敦煌石窟をモデルに、都平城の西15kmの雲崗にある武周山の岸壁を切り拓き、石窟五カ所を造りそれぞれに大仏像を彫り出させた。これら「曇曜の五窟」は北魏の初代道武帝から、明元帝、景穆帝、太武帝、文成帝の五帝になぞらえている(どの仏像がどの帝にあたるかは諸説ある)。この五窟に続き開削が行われ、大規模なもので42を数える。大小無数の仏像はガンダーラ様式のものもあり、グプタ様式のものもある。しかし、わずか40年で孝文帝の漢化政策により、都が洛陽に移されたため、雲崗の造営も終焉した。<礪波護他『隋唐帝国と古代朝鮮』世界の歴史6 中央公論社 p.142-143>
雲崗の石仏の意味
雲崗に石仏を建造することを思いつき、文成帝からその監督を命じられた僧曇曜は、北魏に滅ぼされた仏教国北涼の出身で、太武帝の廃仏の間は身を潜めていたが、新帝によって都平城に招かれ、仏教復興事業にあたることとなった。曇曜は、廃仏の憂き目を再び味あわないように、容易に破壊されない仏像をつくろうとし、故郷の北涼に倣って石仏を造ることにした。また北魏の皇帝が気が変わっても破壊できぬよう、5体の大仏は北魏の太祖道武帝(拓跋珪)から現代の文成帝までの5人に擬した巨仏とした。しかも、その位置は都平城から北方の拓跋氏の故郷の地にむかう道の途中を選んだ。このような周到な配慮で造られたのが雲崗の石仏であった。<塚本善隆『唐とインド』旧中公版世界の歴史4 p.269>