阮籍
中国の3世紀、魏の人で竹林の七賢の一人とされる。「白眼視」の逸話で有名。
阮籍(げんせき、210-263)は「竹林の七賢」の一人で、3世紀の中国の三国時代、魏の代表的な思想家。俗界の名利を求めるのをやめ、自由に議論し、音楽を楽しみ、囲碁や酒を愛し、清談に明け暮れたという代表的人物。囲碁を好み、母親の死を知りながら囲碁を止めなかったという話や、礼のみを重んじ名利を求めて近づく人間は白い目で迎え、清廉な人物は青眼でで迎えたという話(「白眼視」という言葉のおこり)は有名である。
漢代の儒教が礼教主義に陥っていると批判し、老荘思想や仏教思想を取り入れた新しい魏晋南北朝の文化を担った貴族を代表する一人と言える。時代的には邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送った239年は同時代である。
竹林の七賢の一人とされる阮咸(げんかん)も阮籍と同じ一族だった。阮籍・阮咸の一族は大貴族であったが、当時、宗法といわれる一族は同じ地方に軒をならべて住んでいた。同じ宗族でも裕福な家と貧しい家があり、阮氏の一族は道路の北側に裕福な家が住み、南側に貧乏な家が住んでおり、阮籍・阮咸は南側の住民だった。あるとき虫干しのおりに北側の人々が美しい着物をずらりと干してみせびらかすと、阮咸は癪にさわって、大きなフンドシを庭につるして対抗した。<堀敏一『中国通史』2000 講談社学術文庫 p.171>
阮氏一族はよほどフンドシに執着したと見える。
漢代の儒教が礼教主義に陥っていると批判し、老荘思想や仏教思想を取り入れた新しい魏晋南北朝の文化を担った貴族を代表する一人と言える。時代的には邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送った239年は同時代である。
礼教主義への批判
形式的な礼教(儒教的倫理観)の重視を批判した阮籍は、みずからも礼教をかえりみない行為が多かった。それは単に自由気ままな振る舞いを讃美するのではない。当時の用語で言えば「任真(にんしん)」、つまり自分の心の真実に根ざした行為を追究している。有名な逸話であるが、かれは母の葬儀中にも酒を飲み肉をくらっていたが、いよいよ野辺の送りになると、ひと声号泣して血をはいたという。これらの逸話は『世説新語』(南朝・劉義慶撰)任誕篇に載せられている。<谷川道雄『隋唐世界帝国の形成』1977初刊 2008 講談社学術文庫 p.83>Episode 阮籍の“フンドシのシラミ論”
阮籍は礼教の士を“フンドシに巣くうシラミ”にたとえて罵倒した。かれらは、フンドシの縫い目ややぶれ綿の中に安住してぬくぬくと暮らし、どんな場合にもフンドシにしがみついてそこから離れようとしない。それがかれらのいう規範なのだ。空腹になると人を噛み、食いはぐれないと喜んでいる。しかし、いったん大火が起こり、町を焼き都を滅ぼすようなことがあれば、シラミの群れは一匹残らずフンドシの中で焼け死んでしまうのだ。君たち礼教君子のこの世の生きざまも、このシラミたちに異なるところはないではないか。<谷川道雄『前掲書』 p.83>竹林の七賢の一人とされる阮咸(げんかん)も阮籍と同じ一族だった。阮籍・阮咸の一族は大貴族であったが、当時、宗法といわれる一族は同じ地方に軒をならべて住んでいた。同じ宗族でも裕福な家と貧しい家があり、阮氏の一族は道路の北側に裕福な家が住み、南側に貧乏な家が住んでおり、阮籍・阮咸は南側の住民だった。あるとき虫干しのおりに北側の人々が美しい着物をずらりと干してみせびらかすと、阮咸は癪にさわって、大きなフンドシを庭につるして対抗した。<堀敏一『中国通史』2000 講談社学術文庫 p.171>
阮氏一族はよほどフンドシに執着したと見える。