嵆康
3世紀、魏晋南北朝時代の竹林の七賢の一人。魏王朝の曹氏と血縁関係にあったが官職から離れ、思索に没頭、老荘思想に傾倒し儒教的道徳観を批判した。司馬氏の政権簒奪を批判したため、処刑された。
嵆康(けいこう 223-262)は、3世紀ごろの中国で魏から西晋にかけて動乱期に現れた「竹林の七賢」といわれる思想家の一人。阮籍らと同時代の人で、老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れた自由な議論を展開した。 → 魏晋南北朝の文化・六朝文化
魏晋南北朝の頃の貴族社会では哲学談義「清談」や神経刺激剤の「五石散」(一種の精神高揚剤)の服用などが流行していた。それらは、魏の実力者何晏が始めたと言うが、嵆康も彼との関係が深かったので、薬を常用した。それだけでなく、酒も飲み、その飲みっぷり、酔いっぷりも見事だったという。嵆康は身長188センチ、長身白皙の美丈夫と賞賛され、竹林で友人と集い、酒と薬を楽しみながら清談に興じ、詩作を行った。その作品は六十首の詩編と十五篇の散文が伝えられている。その多くは老荘思想を基底にした哲学的論文や書簡など多彩なジャンルにわたり、それらの作品によって時代を代表する哲学者・詩人と見做されるようになった。また嵆康は琴の名手でもあったという。
曹王室との姻戚関係にある嵆康は司馬師の誘いを受けることなく、255年には司馬政権に対する挙兵に加わろうとしたこともあったが、そのときは思いとどまった。司馬師はまもなく病死、代わった弟の司馬昭が、司馬氏の政権奪取の完成に向かう。政争に巻き込まれることを危うく回避した嵆康は、山歩きと鍛冶仕事に熱中しながら思索を深めていた。
竹林の七賢の一人とされる
嵆康は若いときから目立って優秀で、243年、20歳になったとき魏を建てた曹操の縁者の娘と結婚し、曹氏一族の姻戚となって官職に就いた。しかしそのころは魏では権臣司馬懿がその実権を握ろうとし、それに対して曹氏に従う有職者何晏(かあん)との間で激しい権力闘争が続いていた。嵆康は微妙な立場にあったが、宮廷の権力争いを避け、首都洛陽を離れ、河内郡山陽県に居を移した。その後も死にいたるまで山陽に居住し、その地で阮籍ら、後に竹林の七賢と言われる人々と交流するようになった。魏晋南北朝の頃の貴族社会では哲学談義「清談」や神経刺激剤の「五石散」(一種の精神高揚剤)の服用などが流行していた。それらは、魏の実力者何晏が始めたと言うが、嵆康も彼との関係が深かったので、薬を常用した。それだけでなく、酒も飲み、その飲みっぷり、酔いっぷりも見事だったという。嵆康は身長188センチ、長身白皙の美丈夫と賞賛され、竹林で友人と集い、酒と薬を楽しみながら清談に興じ、詩作を行った。その作品は六十首の詩編と十五篇の散文が伝えられている。その多くは老荘思想を基底にした哲学的論文や書簡など多彩なジャンルにわたり、それらの作品によって時代を代表する哲学者・詩人と見做されるようになった。また嵆康は琴の名手でもあったという。
司馬氏の魏王位簒奪に抵抗
魏の宮廷では249年、司馬懿がクーデタをおこして何晏などを殺害し、実権を握った。皇帝即位に踏み切らないまま、彼は2年後に死去したが、その子の司馬師は曹一族や有力な部将を次々と死に追いやって政権の独占を図った。司馬師は権力を補強するため、批判勢力をも傘下に収めようといわゆる竹林の七賢にも手を伸ばし、阮籍と山濤はそれに応じて出仕した。もっとも阮籍は司馬政権のもとに入ってからも意識的に酒浸りになり無能ぶりを装って協力を拒否した。<井波律子『中国文章家列伝』2000 岩波新書 p.44-68>曹王室との姻戚関係にある嵆康は司馬師の誘いを受けることなく、255年には司馬政権に対する挙兵に加わろうとしたこともあったが、そのときは思いとどまった。司馬師はまもなく病死、代わった弟の司馬昭が、司馬氏の政権奪取の完成に向かう。政争に巻き込まれることを危うく回避した嵆康は、山歩きと鍛冶仕事に熱中しながら思索を深めていた。
Episode ”朝寝坊ができないから役人にならないよ”
司馬氏は、権力者の求めに応えず出仕しようとしない者を許さない恐れがあり、嵆康にも処罰の手が伸びるだろうと心配した友人の山濤は、嵆康に出仕を勧め、官職に推薦した。それに対して嵆康は山濤に対して絶交書(「山巨源に与うる書」)を送り、自分が官途に就かない理由として次の七点を挙げた。<井波律子『同上書』p.60-61>- 朝寝坊ができなくなること。
- いつもお供の下役に見張られ、行動の自由がなくなること。
- 正座すると足がしびれ、また虱が多いのでいつも体を掻いていなければならないのに、正装して行儀良く上役に敬礼しなければならないこと。
- 筆不精なのに、山のようにくる手紙に、いちいち返事を出さなければならないこと。
- 葬式儀礼が嫌いなのに、無理に調子を合わせねばならないこと。
- 俗物が嫌いなのに、いっしょに仕事をしなければならない(中略)こと。
- めんどうなことは辛抱できないのに(中略)世間の俗事をいつも気にしなければならないこと。
- 儒教の聖人である孔子や周公旦を軽蔑していること。
- 強情で不正を憎悪し、軽率で思ったことをすぐに口に出し、何かといえばすぐ自分の意見を申し立てること。
嵆康の刑死
役人生活を風刺すると共に、儒教的な形式主義を非難する内容であるこの書簡は公開されたので司馬昭の目にとまった。魏王朝簒奪をねらう司馬昭は、「忠」に代わり「孝」の理念を中心とする儒教イデオロギーを政治の根本原理にしようとしていたので、不快に思った。ついに司馬昭は、反儒教的発言を理由に嵆康を逮捕した。もはやこれまでと獄につながれた嵆康は、獄中で自伝的長編詩「幽憤詩」(『文選』巻二十三)を書いてまだ十歳の長男嵆紹への遺言とした。263年(262年説もある)、嵆康は刑場にひかれてゆき処刑された。『世説新語』によれば、「嵆康は洛陽の東の市場で処刑される際、表情を変えず、琴を取り寄せ「広陵散」の曲を奏でた。…………太学の学生三千人が上書して、師としたいと申し出たが許されなかった。文王(司馬昭)もやがてはこれを後悔した」という。<井波律子『同上書』p.68>司馬氏の権力奪取完成
嵆康の死と同じ263年に、阮籍も死んだ。帝位を狙った司馬昭も、それを目前にしながらまもなく死去、その年265年に魏王位奪取の最後の詰めに入った司馬氏は、ついに司馬炎が魏王から禅譲を受ける形で即位して西晋王朝初代の武帝となった。司馬懿のクーデタから十五年が経過していた。参考 徒然草より
竹林の七賢のひとり、嵆康については、吉田兼好が『徒然草』第二十一段「万のことは、月見るにこそ慰むものなれ」でふれている。(引用)嵆康も、「山沢に遊びて魚鳥を見れば、心たのしぶ」といへり。人遠く、水草きよき所に、さまよひありきたるばかり、心慰むことはあらじ。<吉田兼好『徒然草』角川文庫 p.35>この「山沢に遊びて魚鳥を見れば、心たのしぶ」という部分も文選に採られた「山濤に与えた絶交書」に見られる。<興膳宏・川合康三訳注『精選訳注文選』 p.419>